佐藤くんの魔法(投稿者秋里八束氏)
「失礼します」
「ああ、気ぃつけて」
涙を見られないギリギリの瞬間で、ちゃんと笑えたと思う。先輩に背を向けたらもうガマンの限界って感じで、涙解禁した。背筋だけはちゃんと伸ばして。
神田先輩には好きな人がいる。ずっと前からそうなんじゃないかって気づいてた。
わたしにやさしくしてくれたのは、同じセッターだから。キャプテンとしてのわたしが頼りなかったから。できたばかりのチームが不安定だったから。神田先輩が好きな森本先輩が、わたしたち後輩のことを心配してくれてたから。わたしのためじゃなかった。わかっていたのにな。
体育館の階段に足をかけた。更衣室に戻ったら、ひとりで思いっきり泣いてやる。
日曜の体育館なんてだれもいないと思ったのに、でっかい影にどきっとした。
あのでかいシューズは佐藤くん? あわてて目をこすった。
「日曜なのに、どうした?」
それはわたしのセリフです。
「練習してたの。佐藤くんこそ、なに。忘れもの?」
「僕も練習」
佐藤くんが階段を下りてくる。でかいだけあって足音も重い感じ。
「当分試合ないのに?」
「アンタ泣いてたの?」
わたしの返事とは関係ないこと聞いてきた。
「泣いてない」
「神田さんに厳しいこと言われたの?」
やだな、この人なんで鋭いんだろう。神田先輩に厳しいことは言われてないけど、なんで神田先輩とふたりで練習してたの知ってるんだろう。
「言われてない」
いつものわたしなら関係ないでしょって怒るところだけど、今余計なこといったら泣き出してしまいそうだった。もう赤くなった目でバレてるだろうなんて、気づかなかったわたしもバカだけど。
これ以上、突っ込まれたら嫌だから、もう更衣室に戻ろうと思って、佐藤くんの顔を見ないで階段を上がった。後ろから階段を上がる佐藤くんの足音。さっきまで階段下りようとしてたくせに、なんでまた上がってくるの?
無視したまま体育館の奥の更衣室に向かう。後ろからシューズのキュッて音がして、わたしの目の前にでかい影が立ちふさがった。
「卓球しようか」
「は?」
なに言ってんの、この人。佐藤くんの顔を見上げた。笑ってる。めずらしい、この人笑うんだ。入部したときからいつも、神田先輩と言い合いしてるか、黙ってムッとした顔してるかしか見たことがなかったのに。
「はい、手伝って」
器具室に引っ張られた。ぱっと見は女の人みたいなきれいな手してるのに、力つよい。スパイク練習のときなんて、こんなぼーっとした風貌のくせに、高い打点からすごいスパイク打ってるもんね。見た目とギャップありすぎ、この人。
佐藤くんに促されて卓球台出して、ネットもセットして、ほいってラケット渡されて、いつのまにか卓球してた。あんまり言葉を交わさないで、ただひたすら卓球のボール打ってた。
温泉ピンポンみたいな延々ラリーだったけど、これで気が晴れたのは事実。いつのまにか卓球してるのが楽しくて笑ったりして。あ、佐藤くんもなんだか楽しそう。部活のときより、試合のときより楽しそうだよ。入る部、間違えたんじゃないの、なんて男子バレー部のブアイソなエースに心の中で暴言吐いた。
「楽しそうだな」
声がした体育館の入り口、振り返ったら、神田先輩がこっちに近づいてくるところだった。楽しかった気分が急にしおれた。やっぱり卓球なんてしないで早く帰っちゃえばよかった。後悔してももう遅いけど。
「で、なんで卓球してんの?」
「なんとなく」
答えたのは佐藤くん。
「なんとなくで日曜に……あ、悪い。もしかして邪魔した?」
神田先輩は、おどけてそう言った。そんなわけないでしょ、先輩。さっきまでわたし、先輩と練習してたのに。
「よくわかってるじゃないですか。逢い引き中ですよ、僕ら」
突然なに言い出すの、この人。にらんだ先の佐藤くんは、どうだって感じで神田先輩を見てる。
「逢い引きって、おまえ何時代の人間だよ」
そう言って笑った神田先輩は、更衣室にシューズ取りに来ただけだから悪かったなって体育館を出て行った。
なんだかよくわからない気持ちでいっぱいになった。なんで佐藤くんは失恋したばかりのわたしに追い討ちかけてくるんだろう。知らないんだとしてもあんなこと言うなんて、もう最悪。
「続きする?」
佐藤くんは、なにもなかったみたいに聞いてきた。
「しない」
「怒ってないで、僕のこと利用して、邪魔ですよってにっこり笑ってやればよかったのに」
利用して、って……?
「さっき泣いてたの見たから、だいたいわかった。羽島が神田さん好きなのも知ってる。神田さんがだれを好きなのかも知ってる」
他人のことに興味なさそうな佐藤くんがそんなこと言い出したのが信じられなくて、言葉が出なかった。
「神田さんが、もしかして邪魔したなんて聞いてくるってことは、羽島の気持ちはたぶん知らないんだろうなと思って」
正直びっくりした。部内の恋愛沙汰にも関心がないような佐藤くんの洞察力に。それと同時に、やっぱり自分の気持ちを知られていたんだって考えたら恥ずかしくなった。
「神田先輩には絶対に言わないでね」
かなうことのないわたしの気持ち。伝えられても先輩は困るだけ。
「言わない」
「絶対だよ」
「言わないよ。不利になるようなこと絶対しない」
「不利ってなに?」
「わかんない? やっぱアンタ鈍感だね」
この人、今日はなんか笑ってばっか。普段からそういう表情してたら、きっとみんなとももっと仲よくなれると思う。でも最近はちょっと態度もやわらかくなってきたかなとも思うけど。
「鈍感で悪かったわね」
「神田さんしか見てなかったんだな」
佐藤くんが急にマジメな顔になった。
「失恋には新しい恋ってよく言うだろ。新しいのどう? 見た目ほど無愛想でもないでしょ、僕」
「失恋って、簡単に言わな……」
失恋って言葉を聞いて思い出した。ほんの三十分ほど前に気づいた行き場のない自分の想い。
佐藤くんの前で泣くつもりなんてなかったのに、もう涙は止まらなかった。床に座り込んで顔を覆って泣いた。もういいや、この人は知ってる。わたしの気持ちも、その気持ちが届かないことも。
佐藤くんがしゃがんで、たぶん目の前にいることは気配でわかった。しばらくそこで涙の出るまま、気持ちが落ち着くまで座ってた。佐藤くんはなにも言わなかった。
着がえて体育館を出た。正門横の野村商店で、佐藤くんが肉まんおごってくれた。佐藤くんは三つも食べた。
「肉まん食ってるときはいい顔してるな」
「え、あ……そう?」
「羽島が笑うんだったら、もう一個おごってもいいかも」
聞いててすごく恥ずかしいようなこと言われた気がするんだけど。
「おなかいっぱいだからいい」
「冗談です」
「もう!」
また佐藤くんが笑ってる。無愛想で、ひとりだけエラそうで、自分のためだけにバレーやってるって感じだった佐藤くんのイメージがちょっとだけやわらいだ。
「神田さん見ても泣かなくなる魔法かけてやろうか」
駐輪場で別れ際、佐藤くんが言った。
「なに?」
「目つぶって」
「なに、トカゲとかゴキブリとか、そういうものさわらせる気?」
なんかこの人、意外とそういうことしそう。
「違うよ。ムシ系じゃないから、大丈夫。はい、目閉じて」
「ヘンなもの出さないでよ」
おそるおそる目を閉じた。でもちょっぴり薄目開けてたけど。
頭の上に大きな手が乗っかる感触。
「羽島は僕のことを好きになる」
「はぁ?」
目を開けた瞬間、抱き寄せられた。しまったって思ったときには、もうわたしの目の前に学生服の胸があった。
「はい、魔法完了」
ポンポンって背中たたいてすぐに放してくれたけど、まだ頭の中混乱してる。なんか文句言ってやろうと思ったのに、言葉が出てこなかった。
「魔法、効いてなかったら、別の魔法かけなおすから言って」
そう言って自転車に乗って佐藤くんは帰ってしまった。わたしに文句のひとつも言わせないまま。ばっかじゃないのとか、ふざけないでとか、ブッとばすよとか、頭の中に浮かんだ言葉はみんな言い放つ機会を失ったまま、わたしの中に沈んでいった。
佐藤くん、ヘンなやつ。絶対ヘンなやつ。そう思ってたけど、たしかに部活のときに神田先輩を見ても、せつない気持ちが胸を埋めることはなくなったかもしれない。単純かもしれないけど、やっぱり佐藤くんの魔法は効いてるのかななんて思った。
「魔法の効果、どう?」
部活の休憩時間、佐藤くんに声かけられた。
「効いた……みたい、かな」
「そうか」
あ、今の顔すっごくうれしそう。どきっとした。これも魔法?
「魔法第二弾も今、秘密裏実行中」
「え?」
また言うことだけ言って、佐藤くんは練習に戻った。第二弾って、なんだろう? わからないまま、わたしも練習に戻った。
部活の後、更衣室から出たところに佐藤くんが立ってた。
「肉まん食いに行こう」
「は?」
いきなり手を引かれた。男子部員も女子部員もみんな見てる前で。
「邪魔すんなよ」
佐藤くんは、わたしたちの後ろで、へーって感じで見てたみんなに意味ありげな視線を送って、にやりと笑った。がんばれよーなんて応援してる男子部員もいた。ああ、第二弾ってこれだったの?
「佐藤くん、ちょっと待ってよ」
体育館を出たら急に暗くなった。立ち止まった上の方から佐藤くんの声がする。
「肉まん嫌い?」
「好きだけど」
暗くてよく見えないけど、佐藤くんの顔を見上げた。
「佐藤くん歩くの速いから。もうちょっとゆっくり」
「……わかった」
佐藤くんと手をつないだまま野村商店まで歩いた。こないだ失恋したばっかなのに、わたしって切りかえ早いなあなんて自分に苦笑した。でもいいや。
佐藤くんが言ったみたいに、佐藤くんを利用してるだけなのかもしれない。でも、結果的にそうならないといいなって思う。わたしが神田先輩よりも佐藤くんのことをずっと考えていられるようになるまで、佐藤くんは待っていてくれるかな。
こんなふうに思い始めたってことは、魔法のかかり始めなのかもしれないなって照れながら肉まん食べた。
佐藤くんが笑ってる。笑ってる顔見て、わたしもうれしくなる。明日も一緒に肉まん食べよう。明日はわたしがおごってあげよう。
肉まん二十五個分くらいの時間をかけて、わたしは背の高い魔法使いと恋に落ちた。