月の赤い夜(投稿者神崎 旭氏)
その町は、むしろ村と言った方がいいような、こぢんまりとした造りだった。整備された大通りもなく、くねくねと曲がりくねった路地で構成された町並み。西の港からは、大海が見渡せる素晴らしい景色が広がっている。太陽が頭上高くに輝いていれば、家々の白い壁と真っ青な屋根が目に染みるほど美しい。ひたすら快晴が続くこの季節、街路には水売りの声がいつでも響いている。白っぽい景色と乾燥した空気。硬い石畳の上を、今日も海風が優しく吹き抜けていく。この坂の多い街で、人々はもうずっと変わらぬ生活を営んできた。彼らはみな素朴で、優しく、日常を大切にしている。この田舎じみた町は平凡であり、朴訥であり、それは平和という二文字にも、また退屈という二文字にも変化する特徴だった。
どこにでもあるような、という表現が何よりも似つかわしいこの町では、かすかな潮の匂いに包まれた人々が、昨日と同じ今日、今日と同じ明日を繰り返しているのだった。
太陽がはるかかなたの水平線に沈めば、町を歩く人々も少なくなり、家々の明かりも徐々に減っていく。既に日が沈み、夜が訪れている。果てしなく広がる夜空は、どこまでも澄んでいた。大きな赤い月が町を優しく照らし、暗い水面に浮かび上がる船影は黒々と揺らめいている。町は、静かに寝静まっていた。
海を望める坂の途中に、二人の男が影を作っていた。柔らかな月光の下、後ろを振り返りながら急ぎ足で歩いている。一人は背が高く、少々痩せすぎの感はあるが、なかなかの色男だ。長い前髪の下からのぞく双眸はぎらりとした光を湛えている。もう一人は金髪で、黒髪の男よりずっと年上のようだった。とある曲がり角まで来ると二人は足を止めた。
「ニコル、これでようやく終わったな」
金髪の男が短く言うと、黒髪の男は小さく頷いた。
「ああ、ようやくてめぇと縁が切れたぜ」
二人はほんの少しの間睨み合った。それ以上口を開く事はなく、ニコルと呼ばれた黒髪の男は、かつての相棒に黙って背を向けた。
隙のない足取りでしばらく歩いていたが、突然現れた背後の気配を敏感に察知し、ニコルは素早く振り返った。が、そこには怯えたような顔をした男と、やる気のなさそうな娼婦、それに子供が二人いるだけだった。
「なんでぇ……」
男はそう呟くと、再び歩き出した。が、背後の気配は消えない。
――追われている。
ふいに、ぞっとするような寒気を背筋に感じたニコルは、予定を変更して、そばにあった酒場の扉を押した。
酒場には男達が集まり、今夜はいつもにも増して盛り上がっているようだ。赤ら顔の客達はエールのジョッキを片手に歌い、笑い、大声で喋りあっている。ここならば安心だろう。そう判断したニコルは人々の間をぬって店の奥まで行くと、自分もエールを頼んで腰を落ち着けた。あたりの騒音の中に紛れていると、ようやく気配も消えたように思われる。しばらく神経を尖らせてはいたが、やがて深く息をつく。ジョッキを大きく傾け、勝利の美酒を味わった。それから男は目を細め、意味ありげに独りごちる。
「終わった、か……」
酒場の夜は長い。仕事からようやく解放された男達は、疲れを癒すため、そして更なる鋭気を養うため、酒場に集う。この町の数少ない酒場で、毎晩のように繰り返されている事だった。いつもと変わらぬ仲間、相も変わらず仏頂面の主人、ぶつぶつと文句を言うじいさんに、怪しげな占い師、色黒の漁師たち……。だがしかし、今夜はいつもとは少し違うようだ。主人が客の注目を集め始めた。
「おぉい、みんな聞いてくれや! 今夜はかわええお客さんだぞ。踊り子とリュート弾きだ!」
むさ苦しい店の中にうねるようなざわめきが広がる。こんな辺境の町では、踊り子などにはなかなかお目にかかれないのだ。彼らは戸惑いの混じった喜びを禁じ得ない。しかし、彼らの目の前に現れたのは、その想像とは少々違っていた。その踊り子とリュート弾きは、どう見ても、十歳前後だったのである。
カタルと呼ばれる木製の小さな打楽器を片手に微笑を浮かべているのは、薄い茶の巻き毛が愛らしい少女だった。髪には大きなリボン。フリルのついた薄手の衣装。赤みのさした頬や、大きな赤い目などが、いやがうえにも彼女の魅力を高め、男達の関心を惹いた。
体を二つに折って丁寧に礼をしてみせるもう一人は、優しそうな、可愛い顔つきの少年だった。年は少女とそう変わらないだろうか。背丈は少女より高かったが、それでも大人の半分ほどしかない。ぱさついた赤毛と澄んだ青い瞳の少年は、その手に弦楽器のリュートを携えていた。
少女の傍ら、椅子に腰掛けると、少年は手にしたリュートの音を確かめた。踊り子の少女が彼へ向かって軽く頷いてみせ、右手のカタルで拍子を刻み始める。大勢の客が見守る中、美しい音色が流れ出した。幾人もの客が、知らずため息をついている。まだ声変わりしていない高い声で、少年は歌う。透明な歌声が店に広がっていった。
リュートの滑らかな旋律と少年の綺麗な歌声に乗って、少女の足が軽やかに踊る。カタルというのは二つの木片を打ち合わせるものだ。そのカタルが、少女の足首についている鈴の音とともに軽快な音を立てている。男達の手拍子が加わっていくと、リズムはだんだん早くなっていった。長い巻き毛とリボンが揺れる。
少女が調子に乗って踊れば、少年もますますリュートをかき鳴らし、店中が歌声と笑い声で満たされていく。少女は何度くるくると回転しても、目を回すことなく踊り続けた。そして、最後の音と同時に高く飛び上がると、後ろ向きのまま机の上に着地してみせる。店中からやんややんやと大喝采が湧き起こり、場は一気に興奮の熱気に包まれた。二人は汗の滲んだ額を拭きながら、何度もお辞儀をする。その周りには硬貨が舞っていた。いつの間にか、狭い店を埋め尽くすほどの客が押しかけている。
「いやぁ、すごい!」
「こんな踊り子とリュート弾き、俺ぁ初めて見たね! しかもまだこんなちいせぇ子供だってのに」
「偉いもんだ、親もなしでずっと旅をしてるだなんてねぇ」
笑顔でない者は誰一人いなかった。彼らに向けられる拍手は、いつまでも鳴り止まないかのようだ。少女と少年は手を取り合い、何度も、何度もお辞儀で応えた。ニコルも、自分が追われていた事すら忘れて手を打ち鳴らしている。
その時、突然物凄い音が響いた。
店のどこかで、何かが大きな音を立てて壊れたのだ。しかしそれが何であるのか、はっきりとは分からなかった。とにかく、何かが一斉に起こったのである。客たちがあちこちでわめきたて、騒ぎ始める。誰もが慌てて立ち上がり、椅子が倒れる。それに机の上の食器が落ちる音、ジョッキが割れる音、幾人ものわめき声が重なり、あたりには混乱が渦巻いた。その刹那、店のランプが次々と消え、辺りは一気に暗闇と化した。人々の混乱は更に深まり、恐怖心が煽り立てられた。
大声が飛び交い、騒音が店に満ちる。
突如、店の一角から男の悲鳴が上がり、それは途中でぶっつりと途切れた。慌てた誰かが火をつけようと呪文を唱え始め、他の誰かが危険だからやめろと叫んでいる。店の主人か、それとも別の男か、誰かがようやく一つのランプに火をつけた時、既に悲劇は起こっていた。
床に散乱した食器の間に、長身の男が倒れている。黒髪は乱れ、つい先ほどまで安堵の光を湛えていた双眸は光を失って淀んでいた。その胸が、朱(あけ)に染まっている。恐らくは幅の広い短剣を一息に刺し、えぐりながら引き抜いたのだろう。大きく削られた傷口からは、今もなお、鮮血が流れ出している。
ほんの一瞬、全てが凍結する。
一人の男は、自分の目に映ったものが信じられず、ごくりと唾を飲んだ。
曲がりくねった坂道を、彼らは歩いていた。坂を下りながら左手を見れば、遠く、海の向こうに半島が見える。眼下に広がる町は、酒場で起きていた事件も知らぬまま、静かに眠っている。
「今度の仕事は楽だったね」
「そうね、報酬もまあまあだし」
「いつもながら鮮やかだったよ」
「そっちこそ。ランプを消すタイミング、ばっちり」
「今夜は本当にいい夜だね」
二人は声を揃えて笑った。無邪気で朗らかな笑い声が、澄んだ夜空に吸い込まれていく。空では大きな赤い月が、小さな二つの影を見下ろしていた。