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白衣の愚天使たち(投稿者広河陽氏)


 ――ノーベル化学賞日本人3年連続受賞に寄せて

「へー、くしょいっ」と竹ノ家(たけのうち)がクシャミをする。
「オヤジ臭い」
 すかさず容赦なくツッコミを入れたのは松縞(まつしま)だった。
 ちなみに竹ノ家は22歳男子。松縞は19歳女子。二人の関係はお笑いの相方ではなく大学の研究室の先輩後輩である。
 松縞は書きかけのレポートから目を離し、竹ノ家をチラリと見て言った。
「竹先輩、また研究室に泊まってレポート書きましたね」
「ああ、しかも化学棟のセントラルヒーターが点検休止中で、研究室のストーブの灯油も切れてたから、研究室中のパソコンを立ち上げてハードディスクの放熱だけで寒さに耐えた」
 無意味に誇らしげな竹ノ家に、松縞はまたしても鋭くツッコむ。
「風邪をひいた今の状態では耐えたと言いません。冬をなめた行為ですね」
 こりゃ一本取られたと、竹ノ家は自分のひたいをピシャリとたたいた。
「松ちゃんは相変わらず厳しいね〜へっくしょいっ」
 またもやクシャミをしつつ、竹ノ家は手近な椅子に腰かける。松縞は処置なしとレポートに目を戻し竹ノ家に背中を向けた。
「バカなこと言ってないで、今日はちゃんと寮に帰って薬を飲んで寝て下さい」
「貧乏学生のこの俺に薬を買って飲めと?」
 松縞は深いため息をついた。なんだか竹ノ家の母親になったような気持ちがしていた。ゆっくりと椅子を回転させ、体ごと竹之内に向ける。
「寮の常備薬、大学の保健センター。タダで薬をもらえる所はいくらでもありますよね?」
 竹ノ家はあごの不精ひげをなでながら不敵な笑みを浮かべた。松縞は嫌な予感がした。竹ノ家がこの笑みを浮かべる時、決まってトラブルが起きるのだ。
 竹ノ家は言った。
「それはもっともな意見だな、松縞君。しかし、我々化学を志す者には、もっと良い手がある」
 彼らの研究室――二ツ柳教授が率いる通称「柳研」は、工学部応用化学科に属していた。彼らは研究室では常に白衣を着用し、日々実験に明け暮れる化学学生なのだ。
「化学学生が風邪をひいた時には研究室に常備しているビタミンCを飲むのだ!」
 竹ノ家が高々と宣言する。
「……あるんですか、この柳研に。うちの専門、無機工業化学ですよ」
「化学系研究室はどこでもビタミンCを常備しているのだよ」
「そういうものですかねえ」
 松縞の言うことには聞く耳持たず、竹ノ家はそそくさと研究室を出ていった。
薬品庫に行っただろうことは簡単に想像できる。
 松縞は再び書きかけのレポートに向かった。今日中に書き上げなければ有機工業化学の単位が危ない。思い込みと行動力が有り余っている先輩にかまけている時間は、ないのだ。
 レポートに集中していると、松縞の肩をたたく者があった。うんざりしながら振り向いた松縞は、ひとつの白いポリ瓶をしっかりと握りしめている竹ノ家を見た。
「これが我が柳研のビタミンCだ」
 竹ノ家はステンレスの薬さじを使ってポリ瓶の中の粉を取り出す。その粉を実験用の薬包紙に載せ、松縞に見せた。
 薬包紙にはきちっと折り目がつけられ、載せた物が飲みやすいようになっていた。が、松縞は竹ノ家が差し出した薬包紙になぜだか違和感を感じた。
 竹ノ家は、乾燥機から取り出した100mlビーカーに水道水を注ぐと、薬包紙に載せたビタミンCを一気に口に流し込んだ。
「薬も飲んだし、松ちゃんの言うとおり寮に帰って寝るとするか。じゃあな」
 またもや不精ひげをなでながら不敵な笑いを浮かべ、研究室を去っていく竹ノ家であった。
 松縞はレポートに向かった。邪魔者は巣に帰ったし、これでレポートに集中できる。しかし、胸につかえたものは無くならなかった。むしろ大きくなるばかりだ。
 レポートを書く手を止め、松縞は竹ノ家が放置して帰ったビタミンCの白いポリ瓶を手に取ってみた。その瓶のラベルには「アスコルビン酸」と書かれていた。中を開けると黄色い粉末が入っている。
 松縞はめまいを感じた。不吉な予感が当たったのだ。
「……早く先輩と連絡を取らないと。まっすぐに寮に帰っていれば、いいんだけど……」

 一方、こちらはまっすぐ寮に帰って自分の部屋で寝ていた竹ノ家。
 彼を起こしたのは、寮の後輩のこの一言だった。
「竹先輩、『お電話』です!」
 後輩は急いで来たのだろう、息を切らしながら電話の子機を竹ノ家に手渡した。この男性寮で取り次がれる電話で「お電話」は、すなわち女性からかかってきた電話を意味する。
「先輩にもついに春が来たんッスね。松縞とかいう人ッス。すげえきれいな声、まるで天使ですね」
「あー、松ちゃんな。そろそろかかってくる頃だと思ってたんだ」
 そう言って竹ノ家は不敵な笑みを浮かべ、あごの不精ひげをなで回した。
「はい、竹ノ内……」
「竹先輩、大変です!」
 言い終えないうちに松縞が竹ノ家の言葉をさえぎる。彼女にしては珍しく、あわてていた。
「先輩が飲んだのはビタミンCじゃないんです!!」
 すると、竹ノ家は言った。
「おまえさん、ちょっと落ち着け。俺が飲んだのは間違いなくビタミンCだ。ポリ瓶にはアスコルビン酸と書いてあったろうけど。アスコルビン酸とビタミンCは同じ物、ビタミンCの化学名がアスコルビン酸なんだ。化学の勉強をした奴なら分かるんだがな」
 それは竹之内が仕組んだひっかけだった。いつもツッコまれっぱなしの松縞に一泡吹かせてやろうと狙ってやったのだ。思惑通りに事が運んで竹ノ家は満足していた。
 ――が、次の松縞の一言は竹ノ家を裏切った。
「そんなの常識です。それより先輩こそ本当に化学を4年も勉強したんですか!? 先輩が飲んだアスコルビン酸、色が黄色じゃなかったですか?」
 質問を繰り出す松縞に竹ノ家は面倒くさそうに答える。
「それが何か? ビタミンCは黄色だろ」
 電話の向こうの松縞の、脱力したような長いため息が聞こえた。
「……純粋なアスコルビン酸は黄色じゃなくて白っぽい結晶なんです。それこそ化学学生の常識ですよ!!」
 今度は竹ノ家があわてる番だった。電話の子機を持っていない右手を、ゆっくりと胃の辺りに当てる。顔から血の気が引いていく音が聞こえた気がした。
「……じゃあ、俺が飲んだのは?」
 松縞はきっぱりと答えた。
「わかりません。アスコルビン酸が劣化した物か、何かと反応した物か、まったく別の薬品の可能性も……とにかく二ツ柳教授に相談してきますから、とりあえず吐いて下さい。それと水をガブ飲みして。体調が悪くなったらすぐに救急車を呼んで下さい」
 それは一般的な化学薬品誤飲の時の応急措置だった。それ以外にいたわりの言葉は無い。松縞らしいと言えばそれまでであり、竹ノ家も優しい言葉を松縞に期待していなかった。が、こんな緊急時になら一言ぐらいと思ってしまうのは、心が弱っている証拠なのかもしれない。
「了解。とりあえず今の所は無事だ。とにかく連絡待ってるぞ」
 電話を切る。と、寮の後輩が竹ノ家に恐る恐る聞いてきた。
「竹先輩、天使とデートのお約束スか? それにしては顔が青ざめてますけど……」
「バカモノ、俺の命の一大事だ! 飲める水をたくさん用意してくれ。俺は便所に消える。あと、松ちゃんから電話があったらすぐ俺に知らせてくれ!」
 竹ノ家の迫力に圧倒された後輩は、電話の子機を握ったまま呆然としていた。竹ノ家はその後輩の脇を走り抜ける。が、足を止め、呆然とする後輩に向き直ると言い放った。
「それと、松ちゃんは天使ではない。どっちかというと妖怪・雪女なのだ!」

「二ツ柳教授っ!」
 緊急時だというのに、松縞の研究指導教授である二ツ柳は、のんびりと茶を飲んでいた。まあ、緊急なのは松縞と竹ノ家だけなのだが。
「いつも冷静な松縞くんが血相変えてどうしたのかね」
 言われて松縞ははっとした。冷静でなければ、教授にこの事態を正しく説明できないだろう。深呼吸をし、一度ツバを飲みこんで心を落ちつけると松縞は口を開いた。
「竹ノ家先輩が何だか分からない薬品を飲んでしまったんです。どうしたらいいか、ご指示をいただけませんか?」
 二ツ柳は驚いたように目を見開いたが、またすぐにいつもの細い目に戻って言った。
「その薬品とは『黄色いアスコルビン酸』かね?」
「え? ええ……」
 詳しい事情を話す前に言い当てる二ツ柳に、松縞の頭の中は疑問でいっぱいになった。二ツ柳は工学部一と言われる癒し系笑顔を浮かべると言った。
「この時期は研究室のアスコルビン酸を風邪薬代わりにする学生が多いから、アスコルビン酸の代わりに市販の顆粒状ビタミンCサプリメントを入れているんだ。市販品はたいてい黄色いから、黄色いアスコルビン酸になるという訳。これで安心したかな?」
「はい、安心しました……」
 松縞は二ツ柳に深々と頭を下げた。これで何の心配もなくレポートに向かえる。なにせ単位がかかっているのだから。
 安心しすぎて忘れたことがあると彼女が気づくのは、翌日だった。

「松縞からの電話はまだか……」
 寒い季節に長時間ヒーターもない便所で吐きつづけ、冷たい水を飲みまくった竹ノ家の風邪が悪化したのは言うまでもない。

END

※このお話はもちろんフィクションです。決して真に受けないで下さい。また、作者のいいかげんな記憶に基づいて書かれているので、細部が事実と異なる場合もあります。


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