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夜のほとり(投稿者:桂木 香椰氏)


 六月十二日、木曜日。
 十三番目の誕生日を、あたしは、真夜中を往く列車のコンパートメントで迎えた。

「誕生日おめでとう」
 椅子に向かい合わせに坐ると、膝がくっついてしまう狭さの、寝台列車の個室。
 父さんは少しだけ笑って、そう云ってくれた。あたしの掌ふたつ分くらいしかない備え付けの机に、離れてきたばかりの小さな街で買った、真ん丸いケーキを置いて。
「ありがとう」
 ――あんまり、めでたいとも思わないけどね。
ふてくされた内心とは裏腹に、あたしは満面の笑みを浮かべる。
 十三歳になる事がそれほど嬉しくなくても、あたしは、父さんがあたしにくれるものは何ひとつ、取りこぼすつもりはないのだ。喩え、それが短いお祝いの言葉であっても。
 眠るためだけに用意された移動空間に相応しい、お弁当箱大の硝子越しの外は、街灯の明かりすらまばら。部屋の乏しい照明さえ、嫌に映えて見える。
 父さんの気分ひとつで、移動に移動を重ねる今の生活。なにが一番好きかって云うと、何処にも属さない、こんな、次の住処に移る旅路の間だと思う。
 なにも期待しないって決めていても、どきどきする。ましてや、父さんが、こんなにしっかりあたしの前にいるのは、この瞬間だけだから。
 ご立派な、二人分には多すぎるケーキの蝋燭に、父さんはジッポで火を灯していく。最後に、自分の咥えたマルボロへ。
 『車内禁煙に、ご協力下さい』
 そんな文句がちらりと、頭を掠めた。好いのかな?
「ハッピーバースデイでも、唄ってくれるの?」
 小首を傾げたあたしに、父さんはゲーって顔をした。解り易いひと。カッコ悪い事、恥ずかしい事が、父さんは大嫌いなのだ。
 フリーランスで仕事をしているから、そんな父さんの見得は、父さんの邪魔をせず、アクセサリーみたいに彼を飾っている。子供じみたひと、と少年の心を持ち続けているひと。おんなじものでもオトナの都合によって、呼び方は変わるみたいだ。
「バカタレ。そんな恥ずかしい事出来るか」
「だと思った」
 予想通りの台詞。笑える。
 前振りもなく、あたしは蝋燭を吹き消した。ちゃっちゃと、潔く。
「ムードねえなあ」
 空き缶に灰を叩いた父さんが、露骨に顔を顰める。
「うるさい。女の人って、年齢関係のハナシ、嫌うもんなんでしょう?」
「誕生日は、別口だろ。何歳になったかはともかくとして。どっちにしてもそんな台詞、おしめが取れてから云えよ」
「生憎、あたしのおしめは十年以上前に取れています。それどころか、おしめを換えてくれた父親のパンツまで洗っているくらいよ。立派でしょう?」
「口の減らん娘だな。……誰に似たんだ?」
 云い負かされていても何処か愉しそうな父さんに、つん、と顎を上げ気取ってから、指先でクリーム塗れの蝋燭を摘む。
「父さんの娘だから」
「そうだな。……俺の、大切な娘だから」
 なんとも評し難い表情を、父さんは浮かべる。
 『大切な娘』って、父さんが囁く度に浮かべる顔。笑みに近いけど、絶対に笑ってなんていない。むしろ、泣いているんじゃないかって、思う。背丈がどれだけ伸びても、きっと、この先どれだけあたしが大人になっても、今の、父さんの表情を、感情を表す言葉なんて持てないんだって感じる。
 それが、凄く寂しい。ぎゅって、父さんを抱き締めたくなる。
 抜いた蝋燭をケーキのトレイの脇に置いていきながら、真っ白な生クリームでコーティングされたケーキのサイズを観察する。
 好い加減、食欲をそそられる量は、とっくに通り過ぎていた。ましてや、父さんは甘いものが好きじゃないと来ている。つまり、これワンホール、あたしの取り分。
 取り敢えず、味に感じて云えば、ぺろりと舐めたクリームはほんのり甘い。幸せな味だ。
 なんとなく――幸せな味だって思える程度には、しあわせ。
 かたん、かたん、って一定の速度で揺れる列車が、揺り籠みたいに思える。僅かなひかりに縁取られた、父さんの横顔。無精ひげ。
 誕生日、入学式、卒業式。季節の節目節目に、ふと、訊ねられない問いが、あたしのなかに浮かび上がる。
 ――あたしの母さんって、どんなひとだったの?
 旅から旅の父さんの荷物は、本当に少ない。身の回りのものだけ、古びた革のボストンバッグに詰めている。その娘のあたしだって、おんなじ放浪少女だけど、小学生の頃のちっちゃなスポーツバッグから、今は中型のトランクに変わっている。捨てられないものは勝手に、どんどん増えていくから。
 何でも捨ててく父さん。なにも手元に残さない父さん。
 父さんの荷物のなかに、あたしの母親の影はない。
 でも、父さんの中身に、あたしの母親はくっきり刻み込まれている。
 知ってる――解っている。
 気付けば、あたしの髪ひとふさを、父さんは、指に絡めていた。
「なに?」
 するすると、髪を滑る指。ふしくれて、器用に動きそうな手。
 褐色がかったあたしの髪を、ひどく大切なもののように、触れる。
「おまえ、髪伸びたなあ」
 眸を細めて、父さんが感慨深く、呟く。
「ちっちぇえ頃は、ぱつんぱつんの短い髪だったくせにさ」
「いつの話よ。もう、三年も伸ばしているのよ? そりゃあ髪だって伸びるでしょ」
「そうか」
「折角だから、もうちょっと伸ばすよ。腰まで、とか」
「邪魔じゃないか?」
「邪魔な筈、ない」
 だって、知っているから。
「……昔、な」
 さらさらと、指先であたしの髪の毛を玩びながら、ぼんやり、父さんは呟く。
 視線は、コールタール色の窓の外。闇々とした夜を縫い進む列車には、無機物の出す曇った音以外、なにも存在しない。扉の閉ざされた四角い箱の外側が、喩えアスファルトで塗り固められていても、きっと誰も気付かない。
 完璧に、遮断された息苦しさと。
 ただ、低い父さんの声だけで。
「お前が生まれる、ずっと前に……綺麗な髪の、女がいたんだよ」
 ――知ってる。
 父さんが、街中で長い髪の女の人を見る度に、振り返る事も。自分のそんな振る舞いに気付いた瞬間の、顔も。
 そうして、父さんはすぐにその街を離れるのだ。長い髪の誰かを捜そうとする自分を、切り捨てる為に。
 弱い父さん。可哀想な父さん――あたしの、たったひとりのひと。
 ふたりで居過ぎてしまったから、あたしの感情は勝手に、粘りを帯びて煮詰まってしまった。もう、この心は、父親を慕う娘の領分を、越えてしまったみたい。
「あたしは、父さんが大好きだよ」
 あたしの言葉に、父さんが微笑む。ちっとも、あたしの言葉なんて救いにならないって、寂しいだけの愛想笑い。
 ――本当だよって、本当は、何百回でも繰り返したかった。


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