繰り返す(投稿者:けんさん氏)
暗い。暗い。暗い。
何も見えない。息苦しい。声が出ない。
必死でもがいて、必死でもがいて、必死でもがいて――
気がつけば、森の中にいた。
俺は未だ乱れた呼吸を整えながら、落ち着いて辺りを見回してみた。
樹、木、苔、樹、木、樹、木、苔――。
目に入ってくるのは緑一色の世界。
ここは……どこだ。
森の中。少なくともそこらの公園でない事は確かだ。
いつの間にこんな所へ来たのか。いつからここに立っているのか。
わからない。
俺は誰だ。名前。年齢。出身地。職業。
わかる。
ここはどこだ。
わからない。
ため息を一つ。
冗談じゃない。会社に行かねばならないのに。
好きな仕事ではない。好きな上司ではない。好きな同僚ではない。
だが、社員である以上、出勤し、己の仕事を果たす責任がある。
欺瞞だ。
嫌味な上司の顔が浮かんだ。奴の説教を聞かねばならないのは憂鬱。
真実だ。
どっちでもいい。
なんとかこの森を出ねばならない。できるだけ早く。
時間――今は何時か。
わからない。
腕時計が止まっている。一時四十三分で止まっている。
午前だろうか。午後だろうか。
どっちでもいい。
今の時間がわからなければ意味が無い。
ため息を一つ。
再び辺りを見回してみる。
まだ日は高いようだ。木漏れ日が地面を照らしてくれている。
ここは少なくとも日本のようだ。落ちているゴミに日本語が書かれている。
とにかく、歩こう。
ふわり。
踏み出した一歩は、やけに軽かった。
二時間近く歩いただろうか。
先程よりもゴミの量が増えたような気がする。
人の生活圏、あるいは行動範囲に近づいている証拠。
思ったよりも早く抜けることが出来そうだ。明るさから推し量るに、上手くい
けば夜までには森を出ることができるだろう。
知らず、足にも力が入る。
もう一息だ、と己に言い聞かせて顔を上げると、向こうに人影が見えた。
助かった。
今までの強行軍も忘れ、思わず駆け出しながら叫ぶ。
おーい。
応えない。木に寄りかかったように半身を隠し、ふらふらと体を揺らして。
幾ばくかの不満と不審を抱きつつも、足は止めず、もう一度、呼びかけながら走る。
おーい。
三十メートルほどまで近づいて、異常に気づいた。
それの足が地についていない。
比喩ではない。木からぶら下がった紐に吊られ、ゆらゆらと揺れている――男……だろうか。
そして、その紐が結ばれた先は、首。
ああ、首吊り死体だ。
遅い認識。
ぴたり、足が止まった。
遅い制動。
既に距離は十メートルにまで縮まっていた。それの細部まで見て取れるほどの距離。
獣に食い破られた胴体。カラスにでもついばまれたか、ボロボロになり、眼球が一つ足りない頭部。
だらしなく開いた口元から、奇怪な蟲が、ぞろり、這い出してきた。
突如、嗅覚が機能を取り戻した。饐えたような、腐敗を伴う臭いが鼻をつく。
嘔吐。
それに背を向け、何も入っていない胃袋から胃液を搾り出す。
激しく息をつき、再びその臭いを捉え、また嘔吐。
一刻も早くこの場を離れねば。
震える足に力を込め、全力で駆け出す。
背後で、死体が揺れていた。見てはいないが揺れていただろう。間違いない。
あの一つしかない瞳で俺の背中を見つめ、規則的なリズムで、ゆらゆら、揺れていた。
走りながら、俺はまた胃液を吐いていた。
どれだけ走っただろう。
俺は地面にうずくまり、泣いた。
なぜ泣いたのだろう。
わからない。
誰ともわからぬ他人の死を悼んで。
違う。
己の不可解かつ不運な状況を嘆いて。
違う。違わない。
半分は当り。
半分って何だ。
わからない。
とにかく、俺は泣き続けた。声を上げて。子供のように。
助けてくれ。
何から。何を。誰を。
わからない。
助けてくれ。
どこから。どこへ。どうやって。
わからない。
いつしか、日が暮れ始めていた。
とにかく、歩き続けた。
足が痛かったが、何故か立ち止まってはいけない気がした。
とにかく、歩き続けた。
不思議と、飢えと渇きは感じなかった。
とにかく、歩き続けた。
視界の先に、揺れる男がいた。
ぞろり。蟲が背筋を這った気がした。
絶叫。
俺は悲鳴を上げたらしい。無意識に出たのだろう。自覚は無く、ただ、いつもより少し高い俺の声が聞こえた。
ぺたり。全身から力が抜け、座り込む。
背後に足音。
振り向く気もしなかった。
好きにしてくれ。
心からそう思った。
足音は真後ろで止まった。次いで、ため息。
「お前さん……また来たのか」
なぜか聞き覚えのある声。
違う。
記憶に無い。聞いたことなど無い。
「俺は二度で気づいたんだがなあ」
なぜか聞き覚えのある声。
あんたは誰だ。
振り向く。男がいた。
なぜか見覚えのある顔。
違う。
記憶に無い。見たことなど無い。
一度、目を閉じ、開く。
「いい加減、気づかなきゃ辛いだけだろうに」
困ったような、哀れむような、曖昧な笑顔。
なぜか見覚えのある顔。
あんたは誰だ。
「やれやれ。じゃあ、また最初から聞くぞ。お前さん、こんなとこでどうした?
」
わからない。気づいたら森の中にいた。
「何で座り込んでる?」
あそこに、死体が。
「あれは誰かわかるか?」
わからない。
「あれは俺だよ」
わからない。
「俺はここで首を吊ったんだ」
わからない。
「お前さんもそうだ」
わからない。
「向こうにお前さんの死体がぶら下がってる」
わからない。
「早く気づかないといつまでも苦しむことになる」
わからない。
「お前さん、これで四度目だぞ」
わからない。
何だ。何を言ってる。
わからない。
俺は首を吊った。
違う。違わない。
どっちだ。
わからない。
俺は死んだ。
違う。違わない。
どっちだ。
わからない。
「ここじゃ、気づいてない奴がいたら教えてやるのがルールだから仕方ないが、いい加減、このやり取りにも飽きたぞ」
気づいてない奴。俺のこと。
何に。
わからない。
「頼むからこれで最後にしてくれよ。いいか、お前はここで首を吊って死んだんだ」
そんなこと知っている。知っていた。
違う。
わからない。
「もう四日もここを歩いて、四度もここに来て、四度も俺の話を聞いている」
そんなこと知っている。覚えている。
違う。
わからない。
わかりたくない。
わかりたくない。
わかりたくない。
「今回も……ダメか……あと何回やればいいんだか」
男の声が遠く聞こえる。
視界が暗い。
ああ、もう、日が沈む。
今日中に出なければいけなかったのに。
ああ、もう、日が沈む。
また、繰り返す。
日が――沈む。
『暗い。暗い。暗い。
何も見えない。息苦しい。声が出ない。
必死でもがいて、必死でもがいて、必死でもがいて――
気がつけば、森の中にいた。
俺は未だ乱れた呼吸を整えながら、落ち着いて辺りを見回してみた。
樹、木、苔、樹、木、樹、木、苔――。
目に入ってくるのは緑一色の世界。
ここは……どこだ。』
また、繰り返す。
後、何回、繰り返すのか。
わからない――。