悩める心の部屋(投稿者C氏)



 そこは白い壁に囲まれた、静かな部屋。広くもなく狭くもないそこに、扉はない。片隅に置かれた観葉植物らしき植木鉢の脇には、扉もないのに傘立てが備え付けられていた。部屋の奥には大きな机があり、卓上ベルと羽ペンが置かれてある。机の隣の鳥かごには、闇の塊のような漆黒の蝙蝠(こうもり)が静かにぶら下がっていた。
 そして大きな机に頬杖をつき、じっと書類を見つめている青年がいる。白衣に似た衣服に身を包み、空色の長い髪を揺らす青年は、ふっと目線を部屋の中央に向けた。
「ようこそ、『悩める心の部屋』へ」
 書類を机の上に置き、青年は立ち上がる。
 唐突に部屋の中央で光が弾け、次の瞬間には独りの男が床に投げ出されていた。尻餅の痛みに顔を歪ませながらも、見慣れぬ白い壁が目に入った途端、男は跳ねるように立ち上がって野犬よろしく叫び散らした。
「こっ、ここは?何だ、どこだ!?」
 男は細面の顔に無精髭を生やした渋目の印象だが、自分の状況を理解できずにうろたえる様は落ち着きのない、ただの若造だ。薄汚れ乱れた衣服を整えもせず、男は部屋を見回し、ようやく空色の髪の青年に気がついた。
「だ、誰だおまえは」
「名前、ですか。ここでは特に意味のないものですが、あなたが不都合なのでしたら「マイン」とでもお呼び下さい」
 男は変な顔をして、周囲をぐるりと再び見回す。
「お、俺急いでるんだよ、早いとこ行かないと……!」
「お婆様のところへ?」
「えっ」
 青年、マインは机に置いた書類を見、そして男を見る。
「懐に隠しているのはナイフですね。なぜあんな優しいお婆様を殺そうなどと?」
 男はぎょっとして、懐を素早く押さえ後退さる。
「借金の返済日が明日に迫っているから、取り急ぎまとまったお金が必要なのですね。懐具合の分かる身内に狙いを定めたということですか」
 自分の胸元とマインの顔を交互に見つめ、男は信じられない、という顔をして口を引き結んだ。マインは静かに椅子に腰掛ける。
「事情は分かりますが、だからといって人の命を奪うのは筋違いですよ」
「う、うるせえ!おまえに何が分かる、余計な口出しすんじゃねえ!」
「それが、分かるのですよ。なぜなら私は、万人に必ず存在する「心」を具現化した存在だからです」
「……はぁ?」
「分かりませんか、まあいいですよ。最初から理解できる方はおりません」
「お、おまえが「心」……てことは、俺の心でもあるってことか?た、たとえ夢でもそんなことがあるわけねえ、俺とおまえは全然似ても似つかねえじゃねえかよ!この薄汚れた俺と、キレイで清潔なおまえが同じだなんて、嘘八百もいいとこだ」
 男はぐるりとその場で一回転し、自らを嘲笑う。マインはそれを聞きながら、軽く微笑んだ。
「あなたが自分のことを「薄汚れたもの」として塗り固め、自分と他者とを常に対比してしまうために、周囲がキレイに見えるだけなのですよ。私のこの姿だって「道を示す者」、例えば教師や医師といった存在に対して万人が持つ印象を、抽象的に表現したものにすぎません。では、もっと分かりやすい姿に変わりましょうか」
「変わるって……」
 男がふっと振り返ると、一瞬部屋が地獄の底のように暗くなった。
 思わずうろたえてあちこちを探り歩く、ほんの1、2秒の間。再び部屋は明るくなる。
「おわっ!」
 男は目を見開いて素っ頓狂な声を上げた。
 柔らかい、夕暮れの落ち着いた陽射しに照らされた室内。
 レンガ作りの簡素な壁に並ぶハーブの束、片隅に小さく燃える暖炉、かたかたと蓋が揺れるたび、いい香りがもれてくるスープ鍋……
「ここは……」
「あなたが、ナイフを持って向かおうとしていたお婆様のおうちですよ」
「!」
 先ほどマインがいた大きな机はダイニングテーブルになっていて、その向うには優しい微笑みを湛えた老婆が、ゆっくりとした手つきで刺繍をしていた。男が瞬きも忘れてその情景に見入るうちに、やがて老婆はそっと顔を上げた。老眼鏡の奥に隠された優しい瞳と眼が合う前に、男は思わずうつむいてしまう。懐かしさともどかしさに締め付けられる胸が、波打つように痛む。
「あなたは15の時にお婆様の元を飛び出してそれっきりですが、お婆様はこの優しい空間をそのままに、今もあなたの帰りをゆっくりと待ち続けているのです」
 いつのまにか男の背後にマインが立っていた。その静かな声を聞きながら、男はうつむいたまま両手で顔を覆った。
「だ、だってよ……両親が死んだから婆ちゃんの世話になってたと思ってたけど、本当は、本当は……!」
「そうです、あなたは教会に捨てられていた孤児でした。信仰厚いお婆様が教会の神父様に申し出て、里親になってくださったのです」
「……そうだよ、婆ぁはそれを隠してやがった。所詮、他人だったんだ」
「他人?」
 マインに振り返って、男は苦々しげに叫んだ。
「そうだよ!赤の他人だ!だったら殺したってかまやしねえじゃねえか!」
「そうでしょうか」
「ああそうだよ!明日までに金を用意しねえと、こっちが身ぐるみ剥がされちまうんだ、さっさとここから出さねえと、てめえから先にぶっ殺すぞ!」
 男は懐に隠していたナイフを引き出し、マインに向けて素早く一閃させた。マインは避けもせず、あっけなく刃に切り裂かれる。しかし、確実に伝わってくるはずの手応えが一切届かないことに男が気付いた時、マインは切り裂かれた側から、光の粒になって消えていく。男が愕然としていると、その背後に再びマインの声がした。
「言ったでしょう。私は万人の「心」を具現化した存在。人が「心」を持つ儚き生き物である限り、何者も私を傷つけることはできないのですよ」
「ぐ……」
 マインはすでに、男の背後で元の姿に戻っている。男は振り返ることなく、突然がくりと膝をついた。大して動いてもいないのに息を荒げ、ナイフを取り落として胸を強く押さえている。
「苦しいですか。それはあなたの良心が、あなたを懸命に引き戻そうとしているからですよ」
「お、俺に良心なんざねえ!ちきしょう、い、痛……」
「それはあなたがそう思っているだけで、どんな人の心にも良心はあるのですよ。その証拠に、あなたは葛藤の真っ只中にあるじゃないですか。お婆様にお金を用立ててくれるよう面と向かって頼めないのは、自分の不様な姿をお婆様に見られたくないからでしょう?」
 男は答えない。マインはその後ろ姿に向けてうなずいた。
「その場に行けば、あなたはお婆様を手にかけてしまう。自分を守るため、お婆様が口を開く前に」
「う……」
「誰でも自分は可愛いものです、だから色々と理由をつけて、自分の行動を正当化しようとするのです。しかしそれが過ちだということも、大概気づいているものなのですよ。あなたがここへきたのはそのためです、誰かに諭されないと自分の行動や感情を律することができない、厳しい現状に囚われたあなたのような方だからこそ……」
 男は顔を少しだけ上げて、胸を押さえながら片隅の戸棚を見つめた。
 小さな、木彫りのプレートが戸棚の奥に立てかけられている。少年時代、男が工作の授業で作ったものだ。親への感謝の言葉を刻むようにと先生に言われ、親のいない男は仕方なく、ただ一言「ありがとう」と刻んだ、それだけのもの。
「そうです。その「仕方がなく」刻まれた「ありがとう」でさえも、お婆様は本当に嬉しかったのですよ。すべての愛を注いで育てた、大切なあなたからの、初めての贈り物だったのですから」
「……」
「里親といえど他人、と言いましたね。そうですよ、赤の他人が、同じく赤の他人の赤ちゃんを一生懸命育てて、大きくしてくれたのです。親ですら与えなかった優しさを、赤の他人が惜しみなく注いでくれたのです。家族や他人といった言葉に惑わされて、あなたは大事なものを見失っていましたね……そんな言葉に決して左右されることのない、「愛」というものを……」
 男のもとに歩み寄り、マインはそっと屈み込んで男の肩を抱きしめた。
 ハッとして振り返った男の目には、マインではなく、優しい笑顔を浮かべた老婆が寄り添っていた。柔らかな夕暮れの陽射しに照らされた皺だらけの手が、優しく、そして暖かく男の手を握り締める。
『わたしはずぅっと待っているよ、大事なおまえが、きっといつか、帰ってきてくれるその日をね……』
「ば……婆ちゃん……!」

 光が閃いた。
 そこはもう静かな白い壁の部屋に戻り、後にはマインだけが残されている。マインは机に向かい、そっと椅子に腰掛けると、机の上に置かれていた書類を右の引き出しへとしまいこむ。
『よおマイン、あいつは結局どうなるんだ?婆ちゃんや他のヤツ殺しちまうんじゃねえの?』
 鳥かごの中で静かにしていた蝙蝠が、突然マインに向けて声を投げかける。マインは逆様の蝙蝠をちらりと見て、軽く微笑んだ。
「いいえ、大丈夫。彼は何もかも失って赤子のように丸裸になるでしょうけど、再び暖かな世界へ戻るはずです。間違いないですよ」
『ちぇ。闇に転んでくれりゃ、俺様の餌になってたのによ。マインのせいで今日も腹ペコだぁ』
「心の底まで暗闇が染み込んだ人間は、そうそういないものですよ。それに「心の闇」の象徴であるあなたに、そう簡単に餌を与えるわけにはいきませんからね」
 マインが机の上にある箱を開けると、艶を帯びた真っ赤な苺が顔を出す。それを一粒取り出して鳥かごの中に入れてやると、蝙蝠は渋々苺の元へ歩み寄りながらつぶやいた。
「へぇへぇ、大人しく甘ぁい苺食ってりゃいいんだろ!ほら、また来たぜ、悩める子羊がよ!」
 蝙蝠はきぃきぃ声でそう言うと、小さな牙を閃かせて苺にかぶり付いた。マインは静かに部屋の中央を見つめ、弾ける光に向けて微笑みかける。
「ようこそ、『悩める心の部屋』へ」