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ブラインド(投稿者G氏)



   1

「向かいのビル、どうしてみんなブラインドが閉まってるんだろう」
 私は何気なく口にした。
「一軒も入ってないらしいですよ。社長が言ってました」
 傍にいたトオル君が答える。
 へえ。
 変わったオーナーもいるもんだな。
 オフィス街の一等地なのに、9階建てのビルを丸々遊ばせているなんて。
 そんなことを思った。

   2

 社長が緊急入院し、知人にこの会社を売却した。
 ベンチャーの小さな会社だ。
 こんなことはよくある。
 2度目の社長は接客業に携わっていたらしい。
 愛想はいいし話し方が優しいのでとても社長とは思えない。
 私達社員は以前より気持ちが穏やかになった。
 前の社長のときは会社を立ち上げたばかりだったし、社長以下社員全員がしゃにむに働いていたように思う。
 過労で社長が倒れたのも仕方のないことだった。
 だけどそれ以上に、私は向かいのビルが気になっていた。
 借り手のいないビル。
 丁度ここから見える向かいの4階、誰も借りていないはずなのに、時々窓が細く開いている。
 ブラインドが閉まっているから誰かが窓を開けている瞬間を見なければ、そこにどんな人がいるのかなんてまるでわからない。
 私はそれが気になって仕方なかった。

   3

「社長、お茶、入りました」
「ありがとう」
 2番目の社長はこの小さな事務所の一番奥、窓のすぐ前に机を置いている。
 向かいのビルには背中を向けた状態。
 西日が入ってまぶしいだろうに、社長はブラインドを細くしていなかった。
「少し閉めておきましょうか?」
「ああ、いいよ。開けておいて欲しいんだ」
「そうですか?」
 眩しくないのかなあ、と思いながら窓の外に目をやった。
 細く途切れる視界の向こうに、わずかだが向かいのビルの窓が開いているのが目にとまる。
「向かいのビル、どこかの会社が入ったんでしょうかね。窓、開いてますね」
 私が何気なく言うと社長は驚いた顔をした。
「え? そんなこと聞いてないよ。向かいのオーナーは気難しくて、中々貸したりしないらしいし、もし入ったなら毎日でも見回りに来るって話だよ。横の駐車場もオーナーが同じだし、借りようと思ったんだけど、不動産屋が『借りるなら気をつけてください』って言ってたよ。随分細かいらしいから」
 へえ、そうなのか。
 一体どんなオーナーなんだろう。
 そう思いながら向かいのビルを見ていると、細く開いた窓の内側にあるブラインドが揺れた。
 やっぱり誰か借りたのか、それとも気難しいオーナーが掃除でもしているのだろうか。

 そのときブラインドの隙間から人の指が出て、覗き見るように少しだけ上下に開かれた。
 奥に人の気配がうかがえる。
 なんだ、やっぱり誰かが借りたんだ。
 私は自分の席に戻った。

   4

 ある日、向かいのビルの4階の窓はブラインドが全開になっていた。
 奥の方で白いワイシャツの人影が動いている。
 人影は右に左に歩き回っていて、新しい事務所の片付けでもしているのだろうという印象。
「なんだ、ちゃんと借り手がいたんじゃないですか」
 私は珍しく午前中から出勤していた社長に声をかけた。
「……うん? ああ、ブラインドが開いてるね」
 社長は視線が定まらないような表情で向かいのビルを見た。
「どうかしたんですか?」
「寝不足でね」
 社長は無理やり笑顔を作ったようにみえる。
「気をつけてくださいね。前の社長も過労で入院しましたし」
「ああ、本当に、そうだね」
 そういって社長はぼんやりと向かいのビルを眺めていた。

   5

 その日の午後、社長が倒れた。
 顔色は青白く、名前を呼んでも反応がない。
 私は急いで救急車を呼んだ。
 社長が搬送される病院が決まるとトオル君が付き添うことになった。
「おうちには連絡したから。私は残って連絡係するわ」
 トオル君はこんな事態が初めてなようで、落ち着かない顔をしていた。
「大丈夫だから、1時間ごとくらいに電話して」
 彼は頷き、救急車の扉が閉まる。
 サイレンが遠ざかるのを聞きながら、私は事務所に戻った。

 事務所の扉を開き、正面にある窓を見る。
 そこにはブラインドの閉まっていない、向かいのあの窓が見えている。
 窓のそばには白いワイシャツの男が立っていた。
 やはり誰かが借りたんだ。
 そして今の救急車の音がなんだったのか、心配になって覗いていたんだろう。
 救急車が走り去った方向を見下ろしている。
 ああ、お向かいさん、入った早々心配かけちゃったかなあ。
 そんなことを思いながら見ていると、向かいの男は私のほうへ迷いもせずに振り向いた。
 男の黒目がちな瞳と私の視線がぶつかる。
 瞬間、男はにやりと微笑んだ。
 私は反射的にこちらのブラインドを一気に閉めた。

   6

「血糖値が異常に上がってたんだそうです。1ヶ月くらい入院するみたい」
 帰ってきたトオル君は心細げに私に言った。
「立て続けに社長が倒れるなんて……。奥さんがね、随分怖がってて、別の人にこの会社売ろうかと思ってるって」
 そりゃ私だって不安になるから気持ちはわかる。
 けど心配したって私が社長ってわけじゃないし、また別の誰かがこの会社の社長になるんだろうけど、そのときはそのときだと思わないと。
 私達は不安な気持ちを抑え、社長がいない会社を切り盛りしていくしかなかった。

   7

 社長が退院すると決まった頃、次の社長も決まった。
 ついに3人目の社長。
「なんかあんまり縁起良くないですよねえ」
 トオル君は苦笑いをする。
 確かにそうなんだけど、業績は僅かずつでも右肩上がりだし、会社自体としては問題もない。
 今は小さな規模でも将来性があると見込まれている業種だ。
 すぐに買い手が決まるのもそのおかげだし、縁起が悪いとも思えない。

 ただひとつ。

 私は気になっていた向かいのビルを見る。
 また上から下まで全部ブラインドの下ろされたビル。
 そういえば、前も窓が開いているときは社長がいた。
 二人目の社長が倒れたときは4階だけ開いてたし……。

 にやり。

 ワイシャツの男の笑顔を思い出す。
 ……まさか……ねえ……。

 新しい社長が来るたびに、あの男は黒目がちで大きな瞳を一点に、社長の背中に集中させていたんだろうか。
 何を思って?

「こんにちは」
 聞きなれない女性の声に驚いて、私とトオル君は扉を振り返る。
「いらっしゃいませ」
「このたびこちらのオーナーになりましたカトウと申します。本日はご挨拶に」
「え?! あ、あの……申し訳ありません、うかがっていませんでしたので」
 対応に出た私の後ろでトオル君もぴょこぴょこと頭を下げた。

   8

「ハヤシさんにはお話をうかがってます」
 カトウさんはにこやかに微笑んで応接セットのソファに座った。
「なんでもわたくしで3人目だそうで」
「はあ、そうなんですよ。ですからその」
 私が言いにくそうにしていると、カトウさんは大きく頷いた。
「わかりますよ、お気持ちは。でも大丈夫ですよ。この業界は将来性がありますし」
 私は苦笑いをするしかない。
 カトウさんはにこにこしながらお茶を飲み、窓の外へ目を向けた。
「あら、お向かいのビル、借り手がないってお聞きしてたんですけど、どなたかお入りになったんですか?」
「え?」
 私は驚いて振り向いた。
 さっきは全部のブラインドが閉まっていたのに、今は4階のあの窓が細く開いている。
 ブラインドは開いたまま、部屋の中の真っ暗な様子がよく見える。
「……オーナーさんがお掃除でもしてらっしゃるんじゃないですか?」
「そう」
 カトウさんは微笑みながらお茶をテーブルに置いた。
「それじゃあ、来週から、わたくしも出社しますので、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
 私は深々と頭を下げた。

   9

 カトウさんは社長として尊敬できる人だった。
 今までの社長より手広く仕事をしていたようで何事にもそつがない。
 私達は安心して仕事に集中できた。
 ただ、向かいのビルのあの窓が、ずっと開きっぱなしなのが気になっていた。
「ねえ、トオル君。あそこ、ずっと開きっぱなしだよね。ブラインドも、窓も」
「そうですよね。事務所が入ったんなら蛍光灯くらいつきますよね。でも真っ暗」
「壁も見えないし、ドアとか、全然中の様子がわからないよね」
「……ヨシミさん、やなこと言わないで下さいよ」
「だって、変だもん」
 一度トオル君を振り返り、また向かいに視線を戻す。
 すると、あの、白いワイシャツの男が歩いているのが見えた。
「トオル君、人、いるよ」
「え?」
 トオル君は座ったまま向かいを見た。
 何かを探すように視線を彷徨わせる。
「からかわないで下さいよ。誰もいないじゃないですか」
「何言ってるの。男の人いるじゃん」
「いませんよ。真っ暗ですもん。やだなあ、もう」
 私は急いで向かいを見る。
 確かにそこにはあの男。
 うつむいて窓の傍を行ったり来たり。
 腕を組んで考え事をしているみたい。
「トオル君、何言ってるの。からかってるのは君でしょう。いるじゃん、男の人が。腕組んで歩いてる」
「ええっ!? もう、ヨシミさんはそんな人じゃないと思ってたのに」
 トオル君は苦笑いをしてパソコンに向かった。

 え? まさか? あの人、トオル君には見えてないの?

 私の背筋に氷が走る。

 ブラインドを閉めようとレバーに手を伸ばした瞬間、男の動きがぴたりと止まった。
 見ちゃいけない。
 私はうつむいてブラインドを徐々に閉じていく。
 あの男は私を見ている。
 黒く濡れた瞳の視線を強く感じる。
 男はきっと、その視線から逃れようとしている私をじっと見つめている。
 何を思って……?

 ブラインドが完全に閉まるその一瞬前、私は耐え切れず視線を上げた。
 黒目がちの瞳が私の視線の先にあった。
 男はゆっくりと唇の両端を持ち上げる。

 逃げ場のない私の姿を、ブラインドはどこまで遮ってくれているのだろうか。


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