犬と僕と(投稿者O氏)
田んぼの端の通学路にある、古い造りの一軒家。そこに、そいつはいた。
砂で薄汚れた体。ぼさぼさの毛並み。やにの溜まった目。いつもふにゃりと垂れた尾。
短い鎖に繋がれたその老犬は、玄関横の日陰で、いつも寝そべっている。
名前も知らないけれど、毎日小学校へ通うためにその家の前を通る僕は、そいつの事が気になっていた。
時々、飼い主が家を出入りするのを見る事がある。その時だけ、そいつは地べたから体を起こしてきちんとお座りし、尾をぱたぱたと振っていた。
でも、飼い主は犬を撫でてやるどころか目を向ける事すらしない。
そんな主人を見送るそいつの目は、それでも、まっすぐできれいなものだった。
主人の事が好きなんだな、と僕は感じた。
僕がそいつの事を知ったのは小学校に入学してからだが、少なくとも四年生になるその時まで、そいつはそんな調子でずっとそこに居た。干あがりそうな暑い夏の日も、降り積もる雪に沈む寒い冬の日も。散歩に連れて行かれているところさえ見た事がない。
僕の知るもっと前には、愛されていた頃があったのかもしれない。その時の事を覚えているからなのか、そいつは、主人の姿を見る度に嬉しそうな様子を見せていた。
たとえ今、自分に愛情が向けられていなくとも。
僕は、学校から家であるアパートに帰るのがいつも憂うつだった。
両親は共働きで、帰ってもどうせ誰も居ない。両方とも帰ってくる時間は不規則で、僕の家族は、すれ違いばかり。そしてしばらく前から、両親の喧嘩がよく目につくようになって。
そんなぴりぴりした空気も嫌だったが、何より僕が嫌だったのは、両親が、僕をほとんど相手してくれなくなった事だった。
それなりに勉強ができ、特に問題を起こす事もなく、僕は両親にとって手のかからない子どもらしい。
だからなのだろうか。両親は、僕の方を見なくなった。
無関心、という名の切れ味の悪い刃は、少しずつ僕の心を痛めつけていた。
僕は、だんだん両親を嫌いになっていった。
ある日、いつものように学校帰りに犬のいる家の前を通りかかると、いつも寝そべっているはずのそいつが、珍しく表の方を向いて座っていた。
遠くを見て、じっと、何かを待っているようだった。
あくる日も、そのまた次の日も。そいつは、座って遠くを見つめていた。
三日目の夕方。僕は偶然、近所の人が立ち話しているのを聞いて、あの家の家族が引っ越していってしまった事を知った。
犬は、繋がれたまま置き去りにされたのだ。
その事実に、僕はひどいショックを受けた。
とぼとぼと家に帰ると、早く帰ってきたらしい両親が、これまでにないような大喧嘩をしていた。
狭い居間で激しく言い争っている両親を見て僕は、それをやめてほしいと、たまらなく思った。
いつもは、見ないふりをしておとなしく自分の部屋にこもるのに。その日は、何故だか二人の間に入ってしまった。
そして―あっちへ行っていろ、と激しく突き飛ばされた。
背中と後ろ頭を思いきり壁にぶつけた時、僕の中で、何かが弾けた。
気がつけば、僕は両親に背を向けて家を飛び出していた。
夕暮れの道を駆け抜けながら僕が思い浮かべたのは、あの犬の事。
相手にされなくて。自由になる事もできなくて。
僕と同じなんだ、と思った。
夢中で走り続けてその家に辿り着くと、やっぱりまだ犬は座ったまま、主人の帰りを静かに待っていた。
帰ってくると、信じて疑わない。その瞳が、とてもきれいで―余計に、痛ましかった。
僕は初めてそいつに寄り、しゃがみ込んで、その汚れてくすんだ体をそっと撫でた。毛はごわごわだけれども、とても、温かい。
そいつは触られても嫌がる事なく、僕の好きにさせてくれた。
涙が、止まらなくなっていた。
ぽろぽろ泣きながら、僕は、そいつの体を撫で続けた。
犬は腹ばいになり、偶然かもしれないけれど、僕が寄りかかって座れるようにしてくれた。
膝を抱えて地べたに座り込み、腰の後ろにそいつの温もりを感じながら、僕は考えた。
こいつは、捨てられた今でも主人の事が好きらしい。
僕は両親が嫌いだから、そこだけ、僕と違うと思っていたんだけど。
本当に、そうだろうか。
嫌い、と思うのは、それに対して気持ちが向いているという事であって。
好かれたい、という気持ちの、裏返しだ。
好きな人だから、好かれたい。想いは、ただそれだけ。
―同じなんだ。
僕は、険悪になる前の両親の優しさを知っている。
だから、心のどこかで…僕も、ずっと信じている。
いつかまた、僕に気づいてもらえる時が来ると―。
すっかり濃くなった夜の闇に抱かれ、いつしかまどろんでいた僕は、その耳に、母さんの呼び声を捉えて目を開けた。
顔を上げて横を向くと、そこに、母さんが立っていた。
立ち上がった僕を、駆け寄った母さんは強く抱きしめてくれた。
そんな事は、とても久しぶりだった気がする。
そして、僕に何度も言った。
―ごめんね、と。
それから、僕は一人で、時々父さんか母さんがいる時は一緒に、毎日犬のところへ餌と水をやりに行くようになった。
うちはアパート暮らしなので犬は飼えない。でもどうしても放っておけないという僕の滅多にない我がままを、両親はこういう形で聞き入れてくれたのだった。
そうして数日が経ったある日、夕飯をあげて帰りかけた時―。
車のエンジン音が聞こえてきて、僕と母さんは離れたそちらを振り返った。
犬がいるその家の前に車が横付けされ、そこから、元住人だった犬の飼い主が二人、降りてきた。
助手席に乗っていた飼い主の女性は、降りるなり犬へ走り寄って身を屈め、そいつを、抱きしめた。
泣いているようだった。
ああ、あの人達も、忘れていたものにようやく気づけたんだと―そう、感じた。
母さんは僕の手を握り、微笑んだ。
そして、また歩き出す。
僕等の、家に向かって。