異世界幻想奇譚(投稿者Q氏)



 せっかく追い詰めた商隊は、一人の落伍者を残し、薄暮の山道を逃げ去ってしまった。
 強奪しようにも、その吟遊詩人の荷物はあまりにささやかだった。盗賊の首領は渋面で、麻袋をひっくり返す。もはや古びた固いパン屑以外、そこからは何も出てこなかった。
「こいつには明日のパンは必要ない。だが俺達にゃ必要なんだ! なんてやくざな無一文野郎だ。金目のものなしでこの山を抜けようなんざな。くそ、お前ら、こいつを木に縛り上げろ。狼の餌にでもしてやれ」
 盗賊の一人が、手にしていた首の長い擦弦楽器ナマリを首領に差し出す。首領は頭を振った。
「たいした装飾もはいってねえ。古臭いがらくたよ。売るより火にくべろ。その方が、俺達をよっぽどかあっためてくれらあ」
「待って下さい」
 吟遊詩人が声を上げる。若者のみすぼらしい衣服は泥にまみれ、盗賊達の乱暴な扱いでできた破れ目からは、擦り傷だらけの肌が見える。肩までの艶やかな黒髪も泥で見る影もないが、瞳だけは強い意志でかすむことなく輝いている。彼は首領の前によろめき立ち、ひざまずいて両手を差し出した。
「私の持ち物は、麻袋の中よりも私の胸の中の方に多く詰まっているのです。もしそれを、しばらくなりともお返し下されば、私は胸の中の持ち物を、あなた方にお見せすることができましょう。これらの宝は、私とともにあの世へとは行ってほしくない」
 首領は詩人をねめつける。しかしこの詩人が語る物語は、盗賊砦で待つ女子供達の良い土産になるかも知れぬ。
「一つだけだ」
 首領は、ナマリを詩人の手に押し渡す。
「貴様の胸にある、極上のものを一つだけだ」
 詩人はナマリを腕に抱き、すぐさま弦を締めて音を整える。盗賊達は松明を手に持ち、詩人を車座に囲む。
 やがて物静かな調べが、蝶の寝息よりも密やかに、ナマリから紡ぎだされた。盗賊達はその音に気づかぬまま、詩人の声に耳を澄ませる。
「この物語は私の命。私が亡き後も、長く生き続けることを望むもの」

 ここより遥か南、二つの大陸に挟まれてバレンという名の海があります。そしてかつて、この海には一つの小島が存在していました。この海は暗礁が多く、大きな商船は通ることができません。ところが引き潮になると、この小島を中継点として、海の中から二つの大陸を結ぶ道が現れるのです。この小島は、西大陸交易路の終着点であり、東大陸交易路の出発点となっていました。
 小島には小さな王国が存在し、行き交う商人達はこの国に多くの富をもたらします。王国の人々は長旅に疲れた彼らを心からの歓迎で出迎え、安らかな休息を与えます。
 島の中央には、老いた王の宮殿がひときわ輝いてありました。二つの大陸の文化と富が融合し、宮殿は彫刻と壁画で所狭しと飾られ、毎晩のように遠路の商人達をもてなす宴が開かれていたものです。
 王には、自慢にしている踊り子が一人ありました。彼女は遥か外海の彼方、海神を崇め海に住まう長寿の異人種でした。一年前、船の沈没か何かで島の海岸に打ち上げられていたのを、島民が連れて来たのです。彼女の肌はなめらかな黒曜石のようで、この世のどんな闇よりも深い色を持っていました。まっすぐな長い髪は、夏の雲を思わせるほどのまばゆい純白です。また並外れて背が高く、宮殿において彼女より背の高い男は兵士達の中にしか見出せませんでした。
 王が彼女を贔屓にしたのは、彼女が珍しい異人種であったからではありません。彼女は類まれな踊り子だったのです。
 宮殿の宴は、ちょうど一番星が輝く頃に始まります。
 ゆるやかなナマリの調べにあわせ、彼女は舞いました。衣装は海女の簡素な短衣を模した生成りの絹で、腰を金糸の紐でゆるく締めただけのものです。両手にした二本の矛の首には、銀の鈴が細い鎖につながれて連なっています。それらは舞手の動きにあわせて互いにうち合わさり、涼やかな音を奏でます。
 矛の重みは、木棒とはいえ全体に純金を被せていたことから知ることができます。それでも舞手の踊りは、いっさいの澱みがない。燭台の明かりを吸って、長く伸ばされる闇色の腕と足。それは青銅像のごとき永遠の静止を思わせる。ところがゆるゆると、次の振りに移るとき、肌の下で鍛え抜かれた筋肉が、柔らかくしなやかに動く。
 やがてナマリに、太鼓の拍子が加わる。
 舞は激しさを増していく。二本の矛先が舞手の頭上で打ち鳴らされ、金色をした音の波紋が広がる。舞手と矛は風のように回る。再び音の波紋が広がる。応えて太鼓のばちがいっせいに打ち鳴らされ、拍子はさらに速まり、ナマリの調べは狂おしく高まる。舞手は旋風、矛は金盤、鎖につながれた鈴は銀の流線となった。
 一筋の閃光とともに、舞手の結い上げた白銀の髪が解ける。長い髪が宙をうねり、旋風の流れに乗って、片足立ちで静止した舞手の漆黒の肢体に、蛇のように巻きついた。そして、さらさらと流れ落ちる。
 舞手の瞳が、宴に集う人々を見据える。鮮やかな金色の瞳……。舞手の肌は激しい舞の後にうっすらと汗が浮かび、燭台の明かりで曇るように輝いています。目の下端に塗られた金粉を含む紋様も、上気した体温に溶けて涙のように頬を伝って流れ落ちていました。
 舞手がゆらりと居ずまいを正すに及んで、人々の目を捉えていた呪縛が解けます。
 平和な暮らしは長くは続きませんでした。異人種を迎えることは、危険なことだったのです。島をかつてない嵐が襲いました。大きな波が何度も島全体を洗い、家屋は砕け、溺れた人々は不思議な力で魚の姿になってしまいました。最後の津波は高台に建つ宮殿の屋根よりも高く、いまにも島全体を飲み込まんばかりにそそり立ち、そして、そこに静止したのです。津波の頂で、白い泡が巨大な海神の姿を形作りました。宮殿の者達はあまりの恐れ多さにひれ伏しました。ただ一人、かの舞手が宮殿の屋根へ、一本の矛を持って立ちました。海の泡でできた海神が、雷光のように鋭い瞳を開けます。
「我に捧げられた黒真珠の生贄よ。我がただ一人の花嫁よ。どこまで逃げても、我は追う。いくつの島を沈め、幾人の人間を魚にすれば気がすむのか」
「私は逃げる」
 黒真珠の踊り子は答えました。
「お前が生贄を得て力を蓄え、今以上の悪事を働かないように」
 この言葉で王達は、あの海の泡が、海神の姿を騙った邪悪な魔人であることを知りました。しかし、人の子らに成すすべなどありません。怒った魔人が、泡の口を大きく開け、ついに島に向かって津波で襲いにかかりました。宮殿の屋根の上だけ、波は不自然に避けて行きます。
 舞手が、手にした矛を魔人に向けて投げました。それは魔人に刺さり、深手を負わせましたが、苦悶のためにかえって海の荒れは激しくなりました。まだ人の姿で残っていたわずかな者達は波に揉まれ、今にも命を失いかけました。驚いた舞手はついに海へ身を投げました。魔人は大切な生贄をここで殺すわけにはいかなかったのでしょう。魔人が姿を消すと、一瞬にして嵐は収まり、陽光の射す凪となりました。人々は魚達に助けられ、それぞれ対岸へと泳ぎ着いたのです。
 島はあの恐ろしい波に削り取られ、跡形もありませんでした。

 ナマリの余韻も消えぬうち、首領が突然大きな音で手を叩いた。
「はた迷惑な女の話だ。貴様の最後を飾るに相応しい。ところでお前は、まるで本当に見てきたように語るんだな」
 紫紺の空に一番星が輝く。詩人の瞳は、夜が忍び寄る森の中で星の輝きを映していた。
「私の祖父は楽師でありました。私は彼の隣で、ずっと見惚れていたのです。祖父のナマリに合わせて、かの踊り子が舞い踊るのを。幼かった私は、いつかこの踊り子が、私の奏でる曲に乗って舞ってはくれぬかと、儚い夢を抱いておりました。今や宮殿は海の下に、祖父や国民の多くは魚になり、かの舞手の行方も知れません。しかし彼女は今もこの世のどこかで、魔人から逃げ続けているのです。私は幼心の夢を生きる糧とし、舞手を捜す長い旅路の果てに、ついにここまで至りました」
「そうだ。ここで貴様は狼の餌になるってわけさ。その不幸に同情しよう。変わった話の礼に、貴様の楽器は壊さず歌のうまい子分にくれてやろう」
 もはや、詩人は一言も口を聞かなかった。無慈悲な盗賊達は彼の腕からナマリを奪い、彼を木に括りつけてそのまま立ち去った。詩人のナマリは若い盗賊に与えられた。彼は初めての楽器を得て、静まり返った森の中、興奮に頬を染める。
 砦に帰った盗賊達は、詩人の物話を妻子に話してやる。その話は、はや原形をとどめてはいない。彼らは物珍しい珍妙な物語に膝を打って大笑いをする。
 その中にただ一人、笑わぬ者がいた。知識広い、首領の老いた母である。
「わしはその島を知っておる。八十年も昔、海神の怒りに触れて沈んだのじゃ。はたして、お前様方が今宵捕まえたかの島の生き残りが、若い男であったということなど、ありえようか」
 老婆の呟きに耳を貸したのは首領のみである。そして彼が、ナマリを渡した若い盗賊の姿が見えぬことに気がついたのは、翌朝のことである。
 若い盗賊はすでに夜の山中を抜け、ナマリを腕に抱いたまま、夜明け間近の空の下を黙々と突き進んでいた。ナマリに込められた青年の魂が、盗賊の心に絶えず呼びかける。
――かの夜の舞を求めよ。舞手の砕けた魂を接げ。彼女の中で、島の記憶は永遠となる。
 盗賊の胸に、舞手の美しい面が浮ぶ。それはなぜか、彼の愛しい娘の面とよく似ている。盗賊は自身が徐々に、ナマリに支配されゆくことに気がつかない。彼の心には、まばゆい宮殿の回廊でゆらめく、舞手の踊る影しか見えない。彼女の姿を追って、彼はあてのない旅路へと出る。
 黒真珠の踊り子。その物語は、語り手を代えるごとに話の運びや舞手の容貌を変えてゆく。しかし変わらぬのは、海に沈んだ島、舞手の漆黒の肌、純白の髪、金の瞳、見事な舞。そして語りの裏で燃える、旅半ばで死した青年の思い。