竜の女(投稿者T氏)



 私の友人の細君が蜘蛛に取り付かれたという。私は「ああ、厄介だね」と相槌をうって、笑った。
 蜘蛛といえば、八つの単眼と六本の足を持った節足動物のことだ。あれの巣はとりもちのように粘着力がある。服にでもくっついたのだろうか。ご愁傷様だ。
 ところが、友人はまさに蜘蛛の巣を払うように手を横に振り、いかつい顔で目つきを怖くした。
「蜘蛛に取り付かれた女と一緒に暮らしている身になってくれないか」
 まあ、私のところに来るぐらいだから、単なる相談でもないだろうとは思っていた。私はこういうわけの判らない事件の相談によく乗る人間だ。私自身も時々妙なものをよく見るからだ。蜘蛛女の話ぐらいで恐ろしく思う事はない。友人はげっそりした顔で話した。
「昨日はムカデを食いやがった」
 これは穏やかではない。ムカデは【病】を意味する心理的象徴だ。その蜘蛛女は病み始めているぞ、と私は気を引き締めた。
 いつまでも冗談を言っているわけにもいかないようだ。私は姿勢を正して、単刀直入に聞いた。
「君は今、細君以外の女性と浮気はしてないかい?」
 友人とその細君は三年前に婚姻を結び、現在彼が三十四才、細君は三十二歳という中年のカップルだ。彼らにはまだ子がいない。
 友人は苦笑いして答えた。
「俺が浮気をすると、女房が蜘蛛になるのか?」
「お前を捕まえるために蜘蛛の巣を張るんだ。彼女が一番食べたい虫はおまえの浮気虫だぞ」
「オカルト的な推察だ。お前らしい」
「で、浮気をしているのか」
「確かに近頃、俺は女房に心を惹かれなくなった。若くて優しい女の子とやり直してもいいかな、という気もする」
「お前の良いところは正直な点だ――細君はかなり危険な病気を持っているかもしれない」
「あー……そうか。でも、お前は一つ誤解をしているぞ」
「ん?」
「俺は夢の話をしているわけではないんだ。現実に俺の家に蜘蛛女がいる。確かにあいつが一番食いたがっているのは、俺かもしれない」
 そして、彼は一枚の写真を私に預けた。それを見た私は仕方なく、引き受けよう、と答えた。
 その写真には、八つの目を持った女が体に網を作っていたのだ。彼の細君はまさに蜘蛛にとりつかれているのである。私は早速彼の家に出向いて彼女を救うことにした。


 専業主婦の職業病は、ノイローゼかもしれないわ、とその細君は話した。新婚当時に比べてすこしぽっちゃりしていた。彼女は、紅茶を入れながら儚く微笑んでいる。
 彼女は近頃退職願を出して専業主婦になった。夫が昇進し、彼の給与だけで生きていけるようになったからだという。
「私はちょっと古風な女なんです。夫に従属しているみたいで気が引けますけど、育児をするなら無職でいた方がいいと思って」
「私は風評なんて気にしませんよ。あなたがそのように生きたいと願っているなら、どのように生きてもいいと思います」
 彼女は至極普通の成人女性に見えた。私は、訪問の理由をあいまいにして彼女と午後のひと時を過ごした。彼女のお手製だというクッキーは美味しかったし、紅茶の香りも高く優雅なティータイムだった。彼女の精神が病んでいるようにも見えないのだが。
 それでも、彼女は健康そうには見えなかった。何か悩みはあると直感していた。
 細君はしばらくして、私にその悩みを話しはじめた。
「ねえ、赤目さん……最近、私の主人と会いました?」
「ええ。久々に彼に会ったので……あなたのことも気になったんです。今日も突然でご迷惑かと思ったんですが」
「あら、いいのよ。あなたってきっとそういう才能があるのね。主人が赤目さんのことを、霊能力者だと言っていたわ。今、私たちには困った問題が起きているの」
「なるほど。私でよければ相談に乗りましょう。いや、私、霊能力というほどの力もないんですが、何かできることがあるかもしれませんし」
「話を聞いてくれるだけでもありがたいの。うちの主人どう思います?」
 どうやら、細君は夫について悩みがあるようだ。私の友人は浮気虫が騒いでいるようだが、それを彼女に感づかれているのだろうか?
 彼女はちょっとはにかんで笑いながら、声をひそめて話しはじめた。
「どうやら、主人……何かに取り付かれているみたいなの。最初は不眠症かと思ったんですけど」
「不眠症?」
「眠れないみたいなんです。昨日も一人でごそごそと台所で何か食べていたわ」
 私は嫌な予感がした。彼が食べていたものは何だろうか。私は彼女に聞いた。
「彼が食べていたものは、何ですか?」
「黒砂糖とかクッキーとか。でも、あんなに食べているのに太らないのが不思議で――ほら、私はこんなに太っちゃったのに」
 彼女は少し悲しそうに笑って、ぽっちゃりした腹に手を置いた。
 確かに少し太めではあるが、中年女性にしてはやせている方だ。むしろ、私は彼女の体よりも友人の体の方が気になった。普通、夜更かししてつまみ食いなんかしたら、太るだろうと思う。彼の体に何か異変が起きているのかもしれないと心配したのだ。彼から聞いた蜘蛛女の話が引っかかっていた。蜘蛛女が食べていたのは【重篤な病】を象徴するムカデである。それは彼の無意識が知らせた警告だったかもしれない。
 私は彼女に断って冷蔵庫の中を見せてもらった。冷蔵庫の中は非常に綺麗だった。だが、私は不思議な気がして、彼女に言った。
「お菓子作りが趣味なんですね」
 クッキーだけでなく、プリンやチョコレート、生クリームと言った製菓材料が所狭しと並んでいるのだ。細君の体型が変わった理由はそこにもあるのだろう。
 私は友人の気持ちになってその光景を見つめた。この箱の中は、婦人の夢が詰まっているように思えた。まるで宝箱のように楽しい未来が描かれている。
 彼女はちょっと嬉しそうに答えた。
「子供が生まれたら、お菓子は手作りにしてあげようって思ってるんです。今は練習中なの」
「そうですか……確かにちょっと太りそうな趣味ですね」
「うふふ。自業自得ね」
 彼女はちょっと笑った。冷蔵庫を見て、私は彼らの【重篤な病】に気がついた。だが、それは私の目から見ると大した問題ではない。
 きっと治るだろうと思った。私は席について彼女に話した。
「一つ聞いてもいいでしょうか」
「ええ、何ですか?」
「ご主人はあなたが妊娠することについて、何か言っていました?」
「……どういうことですか?」
「つまり、彼は子供を欲しがっているんでしょうか」
 私の質問は彼女が抱いていた問題を抉り出してしまったようだ。それまで明るかった彼女の顔色が悪くなった。
 彼女はそれ以上何も言わなかった。それだけ彼女の願いが強いのだろう。友人もまた、彼女の思いの強さを理解しているに違いない。
 本当ならば、これは夫婦の問題だ。二人が話し合って解決するべきだと思ったが、私は介入することにした。細君はおそらく既に妊娠しているのだろう。友人は状況の変化に心が追いついていない。しかし、ちょっとした覚悟の問題だ。そしてそれは、二人に愛があるならば乗り越えられるだろう問題なのだ。
「奥さん、この家には今、鬼が取り付いています。このままではご主人がその犠牲になってしまうでしょう」
 私はそのように言った。仰々しい台詞を聞いて、彼女は真っ青になっていた。彼女がどれだけ夫を愛しているか、私には判っている。きっと上手くいくだろうと思った。


 竜女成仏、という逸話がある。
 法華経によると、竜王の娘が八歳の時、竜身から突如変性し、男子となって往生したという。この逸話から、日本では男尊女卑の伝統が生まれたわけであるが、人はどんな罪人でも仏の前では等しく許される存在である、という悪人往生論の一つだ。女は生まれながらに罪を持っている。しかしながら、徳を積み、仏に仕えれば難を逃れることができる。だから、仏を信じなさい、となるわけだ。宗教にはそういう原罪を取り扱った伝説が多い。
 だが、全く無意味な法でもない。私はそれを利用することにしたのである。
 細君には魚介類をよく食べさせるようにし、お菓子類の製作を控えるように提案した。そうしなければ、夫が竜に食われて病気になると言ったのだ。事実、妊娠女性に必要なものはカルシウムや鉄分、ミネラルである。そして菓子類の脂肪分は控えた方がいいし、紅茶やコーヒーに含まれるカフェインだってあまり良くない。彼女の体にも理に適っていると思った。
 そして、友人には【厄払い】が必要であると教えた。
「厄年には、女性をとにかく海に近づけてやってくれ。うろこの模様の入った服を着せ、魚をよく食べさせるんだ」
「まるで迷信だな」
「じゃあ、騙されたと思ってやってくれ。最大の厄落としはどうやるか知ってるかい?」
「どうするんだ」
「子供を産み落とすことだ」
「へっ……辞めてくれよ」
「じゃあ、彼女を諦めて別の女を選ぶか? 女は皆、三十三になると鬼になるぞ。鬼になったらまた捨てて別の女に換えるのか?」
「子供が生まれたら、きっとあいつはさらに鬼みたいになる」
「鬼に取り付かれて苦しんでいるのは彼女の方だぞ?」
「…………」
「まあ、良く考えて。この問題はもう終わったよ」
 私はそれっきり気楽な旅行に出てしまった。友人がその後どんな選択をしたのか聞いていない。
 しかし、私の手元に残った蜘蛛女の写真は、その後多少変化した。八つの目と、体に浮き上がったくも状の血管は綺麗に消えていた。代わりに人魚のように美しい女性がスパンコールのような輝くドレスを着て、赤い糸を出している。その赤い糸の先にはきっと頼れる男性がいるんだろう。彼女の運命が好転したことを知って、私はその写真を焼いて浄化したのだった。