目覚めのとき(投稿者A氏)



 三時限目の授業が終わり、ぼくはためいきをついた。だるい。すこぶる眠かった。退屈さは罪だ。
 だが、このあとすぐもっと上等な罪が、ぼくに襲いかかってきた。
 ずずずずずーーーーーーーっ。げぼっ。ずずっ。ずずーーーっ。ぷはっ。
 それは、紙パックの中をストローで、これでもかと貪欲にすする音だ。牛乳か、グレープジュースか、飲むヨーグルトか……。
 そんなこと、どうだっていい! 後ろの席で、ふんぞり返っている光井貴明(札付きの悪)の胃袋に今おさまっている液体が何だろうと――!
 これからどうなるか、ぼくはわかっている。毎日繰り返される日課。この高校を卒業するまで延々と続くこと。それは光井の中でも、きっと習慣の域に達しているだろう。
 そういう当たり前のことが、当たり前のように起こった。本当は当たり前のことじゃないのに。
――衝撃。
 紙パックが、光井の手を放れ、彼のできる限りの力を込められたスピードで、ぼくの後頭部にぶつかったのだ。もちろん、その軌道上には、かすかな飛沫が、うっすらと匂いを残している。今日はヨーグルト。それはぼくの制服にも染みこんでいく。
「捨てといてくれ。たのむわ」
 いつもどおりの間延びした嫌らしいイントネーションが、ぼくの背中にねっとり貼りついた。染みこんでいく液体よりも汚らわしいその声が、どんよりと心の中でこだました。
 ぼくは席を立った。もちろん床に落ちているものを拾い上げるためだ。いつもどおり。でも今日は、ぶつかったときのの角度が側面だった。側面と角では、当たったときの痛みが違う。後頭部を手でさすたりしなくてすんだ今日はツイているかもしれない。
 そして――。
 カチッ。
 なんの音だろう? しゃがみこんで紙パックに手をのばしかけたとき、その音はした。光井と目を合わせたくなかった。他のクラスの連中とも、そうだ。ぼくは動きを止めて待った。
 風? ふっと吹き抜けていった、心の中心を。ぐらりと床が傾いたような感じ。めまい。校舎全体が、波にもまれる船みたいに揺れているような……。
 ぼくは尻餅をついた。息がつまりそうで、きつく目を閉じた。それでも、ぐるぐると目が回るようで、たくさんの眩しい光点が、まぶたの裏の暗闇を流れていった。
 あっ!
 全身が燃えるように熱い。ぼくは紙パックを持って、ゆっくりと立ち上がった。光井貴明の顔をまっすぐに睨みつける。なにごとかと射すような視線を返す彼に向かって歩いていく。
「おい、なんだ? その態度は!」
 怒声がとんできた。ぼくはひるまなかった。というより、ひるめなかった。こんなクズに対してそんな真似はできない。
 人間の業とは思えない速度で、ぼくの手が動き、光井の額に紙パックが叩きつけられた。完璧に計算されたパックの角が、肉を切り裂いた。
 血が額からしたたって、しばらくして大声を上げる愚か者に、教室の視線が集まった。手のすき間からあふれる血が顔を染めていく。光井は床にひざをついて、うつむいて、じっと動かない。
 ぼくは、彼に負けないくらいの大声を上げた。その奇声にクラス中が震え上がったようだった。誰もが尋常でないものを感じたかもしれない。光井の仲間たちさえ、びびっているのがわかった。ひとまず、この場を放れなければ……。ぼくは上に向かうべきだ。下じゃない。上だ。高みへ……。
 教室を出て、廊下を走った。階段を駆け上る。どんどんと込み上げてくる躍動感のようなものを感じていた。僕はこの世界の人間ではなかった。こんなちっぽけな場所で眠気を噛み殺しているような、クズみたいな人間たちに小突き回されるような、そんな、存在じゃなかった。さっきの音で、ぼくの中に封じ込められていた記憶が蘇っていた。
 ここじゃないんだ! 本当の故郷に帰らなければ! 異世界の扉を開くんだ! ぼくは王子だ。謀略――記憶を奪われ、こんな世界に放逐されてしまった! そうだ。今こそ、ぼくは思いだしている!
 屋上のドアは鍵が掛かっていた。力まかせに回すと、難なく開いた。王子の行く手を阻むことなど、この薄っぺらな世界にできるものか!
 空。限りなく続くその向こうにある宇宙。ぼくは両手を大きく広げて屋上を歩き回った。自然と涙があふれてきた。ぼくはここにいるぞ。さあ、天空の扉よ、開け!

「なにをしているの!」
 突然の声に振り返った。邪魔されるのは、ごめんだったが、誰だろうと今のぼくにかなうものはいない。一瞬で黙らせることができる。が、しかし……。
「結城?」
 ぼくは少し拍子抜けした。壊れたドアノブに手をかけて立っているのは、結城未紀。優等生のクラス委員で、とびきりの美形。ちょっと街を歩けばなんとやら、ってやつだ。こんなときに彼女がナゼ? クラス委員の責任感ってやつか? まさか……。
「気づいたのね?」
「なにがさ?」
「自分のことよ」
「えっ!」
 僕は思わず声を上げた。いやな感じ。そういうことなのか……。こいつ知っているんだ。
「どうやら、察しがついたみたいね。目覚めたとたん、急に見違えるようになっているもの。オーラが違うわ」
「……おまえ!」
「そうよ。わたしはあなたの見張り役なのよ。おとなしく元の状態に戻って欲しいの」
 未紀は後ろ手にドアを閉めて、一歩前に踏み出した。慎重な足取りで、僕に近づいてくる。
 と、そのときだった。凄まじい勢いでドアが開き、光井が飛びこんできた。まだ血は止まっていないらしく額に手を当てている。その後ろには仲間たちが三人続いていた。
 未紀は背後から現れた荒くれ者どもに驚く間もなく突き飛ばされた――彼女はコンクリートの上に倒れ込むのが当たり前だった――この世界の人間らしく振る舞えばよかったのだ。
 だが彼女は、持ち堪えてしまった。記憶と取り戻した僕から目を離したくなかったのだ。
 痛そうに左手で右肩をさする光井。
「なんじゃ、コイツ! 邪魔するのか!」
 光井の蹴りが未紀の腹部をとらえた。後ろの連中の一人が、彼女の髪を掴んで、ぐいぐいと振り回すように引っ張った。
 たまらずコンクリートに投げ出されるように転がる未紀。ぼくはその様子をただ眺めていた。彼女の正体を、光井たちはまだ知らない。
 ちらりと空を見あげる、ぼく。渦巻きのように雲が一箇所に集まりだしている。もう少しだ。あそこから光が射しこんだとき、ぼくは舞い上がる。本当の世界に帰れるんだ!

 未紀も空の変化に気づいていた。起きあがり、光井たちなど意に介すふうもなく、空を見入る。任務に忠実だから? 違う。もし、ぼくを逃せば、自らの命がないことを知っているのだ。冷酷無慈悲な世界の召し使い――。
「ぐごっ!」
 仲間の一人が素っ頓狂な声をあげた。鋭い針のような触手が、彼の喉元を貫いていた。崩れ落ちる。制服が血に染まっていく。
「――――!」
「バケモノ!」
 なりふり構っていられない未紀――本性を現してしまった。あの美形は作られたものだった。だから、あんなにきれいだったんだ、とぼくは納得する。今、目の前いる大きなムカデ型の生物は、ヨダレを垂らし、鋭い触手を何本も同時に振り回している。鋼鉄製のチェーンみたいにビュンと音をたてて……。
 あっという間に、残りの二人が串刺しにされた。あまりの恐怖だったのか、彼らは動くことさえできなかった。腰を抜かしてのかもしれない。
 光井――彼だけが一歩引いた位置で震えていた。まだ、止まっていない血が額に一筋の影を作っていた。
「この野郎!」
 彼はバケモノに向かって突進した。震え上がって身動きができずに餌食となるか、逃げだすか(どうせ無駄だけれど)すると思っていたぼくは、ちょっと彼を見直した。やり方はどうあれ、動機はどうあれ、ぼくの記憶を蘇らせてくらた奴――さすがだ。
 もちろん、一瞬だった。他の連中と変わらず、彼も、冷たいコンクリートの上の倒れ込んだ。二度と自力で起き上がることはない。
 さて、いよいよ、僕の番がきた。
 天空の光は、まだ少し時間がかかりそうで、異世界の王子(ぼく)の前には、敵の見張り役(バケモノ)が、事を早く済まそうとして立ちはだかる。
――こんなとき! こんなとき!

     * * *     

 目を開けると、僕は病院のベッドにいた。母さんが心配そうに覗きこんでいる。
「気がついたね」
「うん、どうして?」
「なにも覚えてないの?」
「……」
「担任の先生の話だと、あんた、屋上で一人、暴れてたって。それで、突然、泡を吹いて倒れたんだってさ」
「そんなこと……」
 ぼくは言葉につまった。あるわけない!、と言いたかった。どうなっているんだ? もしかして……。
「母さん、ぼくは本当のことを言わなくちゃいけないんだ。でも、ごめん。わかって欲しいんだ」
 なぜか涙が込み上げてきた。今しかないんだと思った。ぐずぐずしていてはいけない。
「ぼく、本当は母さんの子じゃない! 異世界の人間なんだ。ここよりずっと高い次元だよ。だから……」
「なに言ってんだ! この子は」
「母さん!」
 ぼくは、ぼく以上に涙をあふれさせている母さんを振り切るようにしてベッドを出た。
 と、半開きになっていたドアがするりと開いた。なぜノックしない?
「あっ、未紀ちゃん! この子、どうにかなってしまったの!」
 未紀がいる。
 母さんは彼女を知らないはずだ。それなのに、なぜ? クラス委員だからなんて理由はなしにしてもらおう! どうなっている? 黒い疑念がぼくの中で嵐のように渦巻いた。
 心配そうな様子の未紀。輝くばかりのアイドルにも匹敵する可愛らしい顔。そんな顔を曇らせて……。
 未紀はうっすらと涙を浮かべ、健気なそぶりで走り寄ってきた。僕の手を握る。そのとたん――!
 怒濤のような思念が、ぼくの中に流れ込んできた。
《さっきは危なかったわ。でも、わたしの勝ちよ。ほんの少し、次元を転位させたの。あなたのほんの一瞬のすきをついたのよ。わからなかったでしょ!》
《なんだと!》
 未紀はきつく手を握る。激しい痛みに、僕は手を振りほどこうとした。
 そして――。
 カチッ。
 なんの音かわかった。