トマト(投稿者F氏)



「総一くん、これをあげるわ」
 僕より四つ年上の彼女は、いつも僕の兄の名に因んだ縞模様の着物を好んで着ていた。
「貿易商の伯父が種をくれて、私が育てたのよ。欧羅巴だか亜米利加だかの野菜なんですって。私はまだ食べてないんだけど、美味しいかしら」
 玄関先に訪れた彼女がそう言って僕の手の平に落としたのは、真っ赤な菜果だった。形は柿に似ているがヘタは細くて深い緑色をしていて、熟れた無花果のように柔らかい手触りに、ぷっくりとした張りがある。
「変なの」
 澄んだ菜果の艶を見つめながら憮然と呟くと、彼女に頬を突つかれた。
「お礼は?」
「…………ありがとう」
 子供扱いをする彼女に釈然としない物を感じながら礼を述べると、それだけで彼女は満足そうに微笑む。
「じゃあ、こっちは縞の分。ちゃんと渡してね」
 空いている方の手にもう一つの菜果を手渡すと、彼女は他の友人にもあげるのだと言って去って行った。
 たったこれだけの用の為に、わざわざ家にやって来たのかと思うと、少し呆れる。高台にあるこの家に来るには、気が遠くなるような石段を上がらねばならないというのに。
 彼女を見送ったその足で、勝手へと向かう。
 板間は少しひんやりとしていて、土間から更に漂ってくる冷たい空気に身震いをする。誰もいない台所でまな板と包丁を取りだし、菜果の一つはまな板の上に、もう一つの兄の分はまな板の傍らに置いた。そして、僕は僕の菜果に包丁を向ける。
 優しく膨らましたシャボン玉のようなそれにゆっくりと刃先が入れられ、けれど、そのシャボン玉は弾けることはなく、代わりに――真っ赤な血を流した。
 背筋を無数の冷たい毛虫が這い上がるような気がして、あまりに赤いその色にどぎまぎしてしまう。外見だけでなく中身までもが真っ赤な食物を、僕は肉以外に知らなかったのだ。
 種を包んだ腸は膠状に固まりかけた血液その物で、赤い液体を垂らす包丁を握った手に人殺しの気持ちを思い知らされる。
 その果汁の色と抱いてしまった感想に辟易して、後退る僕は傍らに置かれた兄の菜果を肘で突いてしまった。
 危急に気づいた時にはすでに遅く、菜果は受け止める間もなく床板に叩きつけられ潰える。赤い飛沫が舞い、僕の頬に恨みがましく張りついた。

 その日の夜、兄が彼女との婚約を告げた。

 僕は頭まで被った布団の中で、押し殺したような咳を繰り返す。無理矢理吐き出したような咳に、喉が酷く渇いた。
 布団から頭を出して、枕もとの盆に置かれた水差しに手を伸ばして起きあがる。ガラスの杯に水を注ぎ、口に含むと寝癖のついた髪を撫でながら溜息をついた。
 昔から僕は気管支系が弱く、喘息で生死の淵をさ迷った事もあった。東京から空気の綺麗なここへ預けられたのは、まだ七つの頃。ここは、父の今は亡き恋人の住まいにして、父の妾宅。妾腹の兄が住む家であった。
 杯を盆の上に戻すと、寝巻きの乱れを正し、掛け布団の上に置いていた羽織を肩に掛ける。
 畳を這うように文机に近付き、その上に置かれた一通の手紙を手に取る。真っ白いだけの素っ気無い封筒。表には大庭総一の文字があり、裏には父の名があった。中には東京行きの汽車の切符と、父からの簡素な手紙。
 ――縞の祝言が終わり次第帰って来い。
 ブルーグレーの万年筆が冷たく別れを突きつける。そう、今日は兄と彼女の祝言の日なのだ。
 僕は膝を抱え、文を見つめる。母屋の浮き足立つような華やかな喧騒が微かに聞こえてきて、この笑い声は彼女の伯父だろうか。
 咳が出て熱っぽいとはいえ、無理をすれば祝言の席にも出られただろう。いや、無理をしてでも出席すべきだったのだ。そうして、皆と共に慶ばしい席を祝うべきだったのだ。
 けれど、それはどうしても出来なかった。
 紋付袴の兄の隣で、綿帽子の下から微笑む彼女の姿を見れない。心底見たくないと思う。涙が出る程いとおしい気持ち。
 広げた手紙を折って封筒に戻すと、切符を手に取ってみる。それを眺めながら、インバネスコートの仕舞い場所と汽車に乗る手筈を思い浮かべた。
 雪見窓の向こうに広がるのは、鮮やかな紅葉の錦。紅と黄の落ち葉は砕かれた林檎を敷き詰めたようで、縞模様を着だす前の彼女を思い起こさせた。
 池の中では赤と白との斑の鯉が泳ぎ、水面の紅葉を揺らす。
 あの日、切り殺され潰えた菜果を、自分はどうしてしまったのだろう。頬に掛かった血のなめらかさばかりが残って、噛締めた思いを思い出せずにいる。
 そっと障子を開け、庭の沓脱石に素足を下ろす。ひんやりと冷たくて、足の裏に楓の葉が貼りついた。
 池を挟んだ向こう側に母屋の渡り廊下が見えて、思わず息を呑む。
 決して見たくないと思っていた。けれど、見てしまってはもう仕方がなく、居ても立ってもいられない。朝露も乾き切らぬ落葉の上を走り、足の爪に濡れた黒土が入り込み、指の間に紅葉の細い葉が絡む。
 母屋の渡り廊下を行く、紋付袴と白無垢姿。
 彼女は裾にでも躓いたのかよろめき、兄の腕に縋りつく。二人の目が合って、照れくさそうに頬を染め笑い合うその姿といったら。
「兄さん、姉さん」
 池を覆う石の上に立ち上がり、力いっぱい声を張り上げると、肩の羽織が落ちて赤い落ち葉に覆われた。
「ご結婚おめでとうございます!」
 僕に気付いた兄は破顔して、彼女は花嫁であることも忘れて慎みなく叫ぶ。
「総一くん、ありがとー!」
 二の腕まで剥き出しになるのも構わず手を振る彼女に、兄が慌てて袖を押さえている。その二人の様子が何だか可笑しくって、僕は笑わずにはいられなかった。
 幸福そうなその姿を見てしまっては、もうどうしようもない。
 二人にはこの笑顔だけが届けばいい。きっと、この瞳から零れ落ちる透明な物には気付けない。きっと、遠くて気付けやしないのだ。
 祝いの言葉に嘘はなかった。けれど、この涙もまた事実である。あの菜果と共に潰えた思い。

 トマトを駄目にした僕を、兄も彼女も優しく許したのだから。