空の青(投稿者O氏)



「先輩のお気持ち、うれしく思わなくはないのですけれども――」と私が切り出すと、彼は泣く直前の子どもの顔でうなだれ、口腔に綿でも詰まっているかのようにモソモソして聞き取りづらい、低くか細く歯切れの悪い声調で「その先はおれが聞いたらつらいかい?」とこぼした。話を展開させようとする私をおびやかす図星の推断をあらわに、隠忍と痛嘆のねっとりからみつく反応を示したのである。
 放課後の屋上だった。そう、放課後の屋上! 自己嘲笑めいた哀しいおかしみがこみあげてくる。ポンと音がするほど軽やかに、なれなれしく私の肩をたたいて誘い出した彼。紋切り型の嗜好をマイナスに向かってアピールするに足る、幼く滑稽なこの舞台を用意した彼は、企図するまますべてがうまくいくように思っていたのだろうか? そうだとしたら、まるで漫画だ。
 彼が屋上に続く階段をわざわざ一段飛ばしで駆け上がり、突き当たった鉄扉を勢いよく開け放ったとき、切り抜かれた長方形から真っ白い光がなだれ、豊かにあふれた。まぶしさに眼を細めて仰ぎ見る、涙ぐましいほど真っ青な、奥行きを失ったモノトーンの空に胸を打たれたけれども、それはそれだけのことだった。彼が私に冬の空を強調して見せたかったのだとして、つまり私がそういうものに感受性を刺激されるタイプの人間だろうと想像力を働かせたのだったとしても、そこには人を単純化して捉えているような節があり、演出過剰でいやらしかった。中性的な甘い顔立ちで背が高く、勉強も運動も良くでき、軽音楽部に部長として所属していて――名前は忘れてしまったけれど、巷のライブハウスで評判のスリーピースバンドを牽引するギタリストでもある彼が、端々にナルシズムの見え隠れする確信的な態度で「すきなんだ。ネ、おれとつきあおうよ」などと……
「あの、ろくにお話したこともないのに――」
「いや! だから、これから話そうよ。そういうことだよ」
 ひときわ強い横風が私の長い髪をばらばらに乱した。
「……つまり、先輩の言う“すき”という言葉は、私に対する関心の度合いが昂じていることをあらわすために用いられた、ということですか?」
 私は平らかに努め、あえて中立的な声で質問した。すると彼は、強張った試される者の面持ちで、しかし傍にもそれと察せられる強烈な希望の熱をむんむん発しながら、のどを大仰にびくつかせてつばきを飲みこんだ。おぞ気が走る。私は頬に不快な紅潮を感じ、思わず目線を遠くへ逃がした。空は濃く、青い。
「やっぱユニークだなあ」
「ご回答を」
 校庭から、体育会系のクラブに所属する生徒たちの、ときに笑い、ときに叫ぶ、汗みずくのわめき声が、こんがらがってひとつになって空の高みまで跳ね上がってくる。私は“やっぱ”という言い方がきらいだった。
「おれはさ、月森のことがすきになる予感がしたし、月森だっておれのことをすきになるかもしれないでしょ。ネ、そうだろ? いまつきあってるやつだっていないんだろ? だったらいいじゃん」
「ご回答を」
 私は背にまわした両手を組んで、きれいに後片付けができるかどうかを不安に思った。彼は怒るかもしれない。ご回答を、ミスター。
「あ、そう。まったく、聞きしに勝るね。でも別にさ、今すぐ答えが欲しいってんじゃないんだ。おれだって何もあせってるわけじゃないから。ネ、明日また――」
 この人はこういう人なのだ。いままで、こういう人ばかりだった。でも、これからもこういう人ばかりなの? もはや遮るよりなかった。
「先輩……なんでそういうふうに人をすきになるんですか? 私はそういうふうには人をすきになれない。そういうふうには言葉を使えない。それは、人と人の問題というよりも、自尊心の問題じゃないですか。誰かをすきになるとき、その“すき”という言葉には、もっともっとたくさんの言葉が詰まっていなければおかしいじゃないですか。空っぽの言葉なんて……!」
 嗚咽に邪魔され思考が渋滞していくのを意識の冷めた部分が感じ取り、かっかと火照る憤りはすぐに湿った羞恥心の衣で包みこまれた。ため涙にぼやける視界が悔しかった。私はまた泣いてしまう。
「あ、おれ、ふられた?」
 ア、オレ、フラレタ? と頭の中で繰り返される彼の言葉に私はいたく傷つき、さらには“傷ついてしまったこと”にも傷ついた。やむをえず小さくうなずく。しばし沈黙。背景音楽は私の嗚咽と校庭の喚声。去れ、去れ、去れ、ばか――
 ごめんな、と彼がつぶやいたとき、緊密にあざなわれて張りに張った負の感情の諸要素がするりとほぐれた。握り拳をふるわせる彼に対してもうしわけない気持ちがまったくなかったわけではない。黒ずんだわだかまりが育っていく。それがどの方向を向いているのかは自分でも判然としなかったけれども、ただ、罪悪感に似ていた。鉄扉の閉まる重たい音とともに、一件落着(しかし……)。私は波立った心が無風の湖面のように静まるのを待つため、屋上を囲う転落防止用フェンスへ足をすすめた。


「大丈夫か、タカ」
 明日から広まるであろう噂話に気落ちして、ため息をつきながら校庭のサッカーを眺め下ろしていたところ、背後から予測不能の声がひびいて私は文字通り飛び上がった。振り向いても誰もいない。

「ここだよ。上、上」

 ――階段棟の上に、金属バットを片手にたたずむ侑子がいた。卵型の縁なしメガネが、太陽光をぎらぎら反射させている。
「侑ちゃん! どうしたの!?」
 私のあわてぶりに満足したのか、侑子は不敵な古典的微笑を浮かべ、スカートを押さえることもせずに跳び降りた。結構な高さだのに、彼女の着地はしなやかで重みを感じなかった。
「ごめん、ずっと上で聞いてた。先まわりして」
 微笑をそのままに、侑子は悪びれることなく朗らかに言った。
「いやあ、タカにもしものことがあったら大変じゃない? だからコイツを持って見張ってたさ。ね?」
「ひどいよ! ああいうの、誰にも聞かれたくないよ……」
 私は“ああいうの”を思い出してしまい、飽きもせず再びまぶたの奥を熱くした。すると、侑子は金属バットを放っぽり投げ、両腕を私の首にまわして壊れ物でも扱うようにふんわり抱き寄せた。彼女は私より少し背が高かった。
「よしよし、崇子は悪くないって。……あいつがことさら悪いわけでもないけど」
「もういやだよ。ああいう無神経な人も、私の賢しらげなところも……」
 侑子は私の後頭部を撫でながら、姉のような心持ちだったにちがいない。彼女は数少ない大切な友だちの一人だった――
「泣くなよ相棒……惜しいなあ、あたしが男だったら絶対ヨメにするのになあ」
 ――がしかし私は、ことあるごとに飛び出す侑子のあやしい冗談が苦手だった。首にまわされた彼女の腕をやんわりほどいて、手の甲で目をゴシゴシこすった。彼女は母性を刺激されてか「あ、コラ、目え赤くするぞ」とあせったように忠告する。私はそれがおかしくて吹きだしてしまった。
「侑ちゃん、ありがと。でももう覗き見はしないでね」
「姫のお守りだよ。さ、さ、さ」
 侑子は私の背後にまわって、フェンス越しの眺めへと促した。
「ねえ、タカ。あんた恋愛したいと思う? 私はしたいんだけど」
「……うん。そりゃあね。でも――」
 背中を両掌で押されながら、とぎれとぎれに答えた。
「――でもね、恋愛ごっこがしたいわけじゃあないから、私みたいなお子さまにはまだむりだと思うな」
「ばかってこと?」
 トンとひときわ強く背を突かれ、そのまま慣性にさからわず身体をひねる。フェンスの内側を囲う欄干にもたれた。
「うん、たぶんそう」
「聞くところによると、恋愛はばかになることだって」
「でもそれは、冷静さを失ってしまうっていう意味合いでしょう? そういうことではなくて、恋愛の主体として、自分の意識と無意識、相手の意識と無意識……自分の気持ち、相手の想い、交し合う言葉の意味を階層的に、多義的に把握できるのでなければ、きっと良くない方向にすすんでいくと思うの」
「む、深いな。要は想像力のレヴェルってことね」
「うん。まあ、たぶん」
 侑子は欄干に右足をかけて跳び乗り、フェンスに両手を押し当てガシャガシャと音を立てた。
「あぶないよ」
「いいんだよ、ばかだし、青春だし」
 大きく折られた侑子の短いスカートが、横風にばたばた踊って寒々しい。私は身震いをした。
「“空っぽの言葉”って――」
 侑子は一拍の間を置いて言った。私が使った言葉だった。
「――あるよね」
 私は、階段棟の上で息をひそめながら顛末をうかがい、じっと聞き耳を立てていた侑子の、おそらく真剣だっただろう表情を思い浮かべて、あたたかい家族的な愛情が育つのを感じた。彼女の使う簡素な言葉のひとつひとつ、その薄い外殻の内側に、複雑に連関する数々の言葉、濃密な想いが詰まっているのがわかるから。
「侑ちゃん」
「ん?」
「私、そういう言葉を使う人たちとも、いつか侑ちゃんとみたいになれるかもしれないこと、わかってる。でもそれなのに私は――」
「いいよいいよいいよ。あんたがあんなやつのことでうじうじするの、いやだよ」
 侑子はフェンスを苛立たしげにガシャつかせて私の声をかき消した。怒らせてしまったかとおそるおそる見上げたが、逆光に陰る彼女の表情はスッキリした笑顔だった。そして彼女は、私の視線に気が付くとはにかむように校庭へ視線を落とした。
「侑ちゃん」
「ん?」
「侑ちゃんはリッパです」
 侑子はそれを合図にしたかのように欄干から跳び降り、私の肩に腕をまわした。
「帰ろうぜ、相棒。スタバで作戦会議だ」

 私たちは仲良し姉妹みたいにくすくす笑い合って、彼の舞台を後にした。