拝啓、天国にいる母さんへ(投稿者R氏)



 あなたがこの世から去って、十年あまりの年月が過ぎました。北川家は男二人のむさ苦しい生活ですが、それなりにうまくやっています。
 おやじは相変わらずネジが一本飛んでいるとしか思えないボケっぷりですが、以前のように、料理の際、塩と砂糖を間違えるという今時の萌えキャラもびっくりなドジはしなくなりました。柔軟剤と食器洗剤の区別はまだつきませんが、洗濯は俺の担当なので心配いりません。
 そうそう、今日は高校の卒業式でした。おやじは忙しい中、仕事を休んでまで式に出席してくれました。こうして無事就学を終え、さらには大学にまで進学させてくれたおやじには、どれほど感謝しても足りません。今まで苦労をかけたぶん、親孝行してあげたいと思っています。思っていました。いや思っていたかった!

 ――母さん。なあ、母さん。どうして死んじまったんだ?



 北川幸太、十八歳。
 本日、俺は彼女に長年の想いを伝えるはずだった。
 彼女の名は、南野ちるみ。
 栗色の長い髪と、ぱっちり二重の大きな瞳、そしてちょっぴり天然の入ったほんわかした雰囲気がチャームポイントの幼馴染みである。ご他聞に漏れず家は隣同士で、今も毎朝起こしに来てくれている。それなんてエロゲ? と煽られようが、事実だから仕方がない。
 ぬるま湯のように心地よいその関係。俺はあえてそれに終止符を打ち、さらに一歩前へ進もうとしていたのである。否、進むはずだった――はずだったんですよ、母さん。

 屋上にて、大事な話があるんだ、と切り出した俺に、ちるみは返した。
「わたしもコウちゃんに大事なお話があるの」
 それは予期せぬ言葉ではあったが、ちるみの言う「大事な話」がなにかは、この時点でもうわかりきったも同然だった。もちろん俺と同じに決まっている。二人は両想いだったのだ!
 俺はもう、その場で小躍りせんばかりの浮かれ気分だった。それゆえ、
「でも、ここじゃちょっと……。これからコウちゃんのおうちに行ってもいい?」
 という、いささか解せない申し出をされても、二つ返事で承諾していた。
 心なしか頬を染め、長く豊かな睫毛を伏せ、恥らうように視線を左右にめぐらせる。そんなわずかな色香すら漂う仕草をされて、断る道理がどこにあるというのだろう。
 自宅への帰り道、俺は今にも叫びだしそうになる自分を押さえこむのに必死だった。なぜならあえて俺の自宅へ場所を移す理由を考えたとき、ある一つの可能性に行き着いたからだ。
 俺の部屋。想いを告げる俺。嬉し涙を流すちるみ。いい雰囲気の二人。じつにいい雰囲気の二人。見つめ合うだろう、手を取り合うだろう。勢いあまって抱きしめてしまうかもしれない。もしかしたらキスとかしちゃうかもしれない。それどころかもっとえらいことになってしまうかも。若い二人の恋の炎は、今まさに燃え上がったところなのだから。
 でも大丈夫。繰り返すが、ここは俺の部屋。当然のことながらベッドもある。シングルだが、眠る以外の用途にも十分使用可だ。つまるところ――
 めくるめく官能の宴が! 今! 幕を開けようとしているぅ!

 そんな思春期にありがちな性衝動の暴走を脳内で繰り広げていられたのも、ちるみを自宅に上げるまでだった。今となってはなぜ、なにゆえ、こんな不可解極まりない状況に陥ったのか、ひたすら自問自答を繰り返すばかりである。
 ……ああそうだ。「三人でお話したいの」と、ちるみが言ったからだっけ。
 最初に断っておくと、ここは俺の自室ではない。リビングだ。中央にはL字型のソファーが置かれ、その一辺に俺、もう一辺にちるみとおやじ。卒業式そのままのスーツに眼鏡をかけた人畜無害そうな中年男性すなわち、俺の血の繋がった実の父親。
 そんな違和感のいなめない配置で座らされ、ちるみが放った第一声は、
「わたし、コウちゃんと家族になりたいの」
 おっとりしたちるみが、そのときばかりは真剣なまなざしを真っ向からぶつけてきた。のん気を絵に描いたおやじでさえ、神妙な顔つきで口を閉ざしている。
 俺は思ったさ。彼氏彼女、恋人同士を通り越し、いきなり親を前に結婚の申し込みだなんて、かわいいふりしてあの子なかなかやるもんだねと。そんなちるみのアグレッシブな一面に惚れ直したりもした。だから俺は言ったんだ。
「はい、喜んで!」
 居酒屋でバイトしていたのが悪かったのかもしれない。しかし、それが俺の本心であることに違いはなかった。
 だって普通思うだろ? 十数年想いを寄せていたかわいい幼馴染みが、俺と家族になりたいって言ったんだ。そりゃどう考えたって、俺のお嫁さんになりたいって意味だろう。ほかに何があるっていうんだ。
 ちるみの反応は予想以上のものだった。それはもう宝くじの一等当選なんて目じゃないくらいの喜びようで、おとなしいちるみが大胆にもみずから異性に抱きつくほどだ。
「みっちゃん! やったあ!」
 なんて歓声まで上げて。
 ……ああそうさ。俺の名は北川幸太。どうしたって、「みっちゃん」なんてあだ名になりはしない。ほかにそう呼ばれる人物がいるとしたら――
「本当によかったです。ちるちる」
 そう言ってちるみの背中に腕を回す、北川道宏、四十三歳、銀行員。
 二人は熱烈なハグを交わしたあと、至福の笑みでこちらを向いた。とどめを刺したのは、ちるみ。
「今日からわたしはコウちゃんのお母さんだよ」

 ――母さん、俺は今なら死ねる。



 そんなわけで俺は今、仏間で微笑むあなたと向かい合っているのです。
 急にリビングを飛び出した俺を心配して様子を見に来てくれたちるみを冷たく突き返したこと、あなたは怒っているのですか? でも仕方ないでしょう。ライバルは父親、なんてかわいいもんじゃありません。俺の初恋にしてたった一人の想い人が、自分の父親と結婚するっていうんです。
 幼馴染みから継母へ。それっていったいどんなジョブチェンジですか?
 悪夢です。悪夢としか思えません。

「幸太くん……。突然のことで驚かせてしまったのはわかります。今まで黙っていたことも謝ります」
 しばらくして、今度はおやじがやってきた。しおらしくこうべを垂れてみせたりするが、頭一つ下げられただけで、二人の仲を認めることなんてできるわけがない。
 俺はおやじの言葉をかき消すがごとく、仏壇の鈴を打ち鳴らした。しかしおやじは引き下がらない。
「幸太くん、僕は真剣です。真剣に彼女のことを思い、そしてなによりきみのことを思い、決心したんです。僕とちるちるの仲、どうかみと」
「ちるちるって言うなぁぁあああ!!!」
 俺は尻に敷いていた座布団をぶん投げ、さらにおやじに掴みかかった。
「なにより俺のことを思ってぇ!? どの口がそれを言うんだ!」
「小さい頃にお母さんを亡くして以来、幸太くんには寂しい思いをさせてきました。僕は精一杯やってきたつもりですが、それでも限界はあります。父親の僕は、母親にはなれません。だから、」
「ちるみを俺の母親に? 誰がそんなこと望んだよ!」
 襟元を締めつけられてもなお、おやじはひるむことはなかった。ずれ落ちかけた眼鏡の向こうから、まっすぐこちらを見据えて言う。
「少なくとも、彼女は。ちるちるはあなたの母親になろうと、今も必死で勉強しています」
「だからちるちるって――!」
 ふと、床に投げ出された鞄に気がついた。乱暴に追い返された際、ちるみがはずみで落としたのだろう。ふたが開き、中に入っていた本が散乱している。そのタイトルを目にして、俺は思わず息を呑んだ。

『男の子は母親次第』
『思春期の息子との付き合い方』
『家庭における母親――夫と子供のためにすべきこと』
『男の子を伸ばす母親は、ここが違う!』

 それは、なによりちるみの本気さを如実に物語っていた。
 考えてもみろ。優柔不断、付和雷同のおやじが、ここまで自分の意思を貫き通したことがあっただろうか。少しでも強く迫られれば、簡単に折れてしまうあのおやじがだ。それもまた、本気さの証であったのだ。
 ――母さん。俺、少し大人になろうと思う。二人の仲、認めてあげようと思います。これが最初の親孝行だと思って。母さんだって、おやじの幸せを願っていますよね。
 そうさ、初恋は往々にして実らないものなのだ。
 俺はおやじから手を離すと、床に散らばった本を拾い集めた。すべてまとめ、鞄に詰める。そして、改めておやじに向き直った。
「おやじ、おめでとう」
「幸太くん……!」
 それだけで十分伝わったのだろう。おやじはぎりぎり耳に引っかかっているだけの眼鏡を直そうともせず、両目に涙を溜めて破顔した。
「俺、あいつに謝ってくるよ」
 おやじはいよいよ泣きだし、うん、うん、と何度も頷いていた。四十になっても情けない我が父親に苦笑すると、俺はちるみのもとへと向かった。
 リビングのソファーで、しおれた花のようにうなだれているちるみ。そんな彼女に歩み寄ると、俺はそっと鞄を差し出た。照れくささを隠しながら告げる。
「その、さっきは悪かった。か……母さん」
「コウちゃん……!」
 途端にちるみの顔が明るくなった。似た者同士なのだろう、こちらもやはり涙を浮かべている。その泣き顔に思わずくらりときたが、俺は慌ててかぶりを振った。
 こんなに若くてかわいい母親ができたんだ。逆に考えれば、これほどオイシイ展開はないんじゃないのか? 何事もポジティブシンキンだぜ、俺!
 ちるみは人差し指で目尻を拭いながら、ほころぶような笑顔を咲かせた。
「これからは家族四人、仲良くやっていこうね」
「ああ――って、四人? 三人だろ?」
「ここにもう一人、新しい家族がいるよ」
 そう言って、ちるみはいとおしそうに腹をさすった。

 ――母さん、俺は今なら死ねる。