二人が引いた境界線(投稿者ハ氏)
冬の公園は死ぬほど寒かった。
それもそのはず、まだ朝日も昇っていない時間なのだ。狭い土地に身を寄せ合って建っている家々は、まるで住人が消えてしまったように静まりかえっていた。
私は一番冷たくなさそうな木のブランコにそっと腰をかけた。それでも小さく悲鳴が出そうになるくらいブランコは冷え切っていた。
「なんでこんな時間に呼び出すかな、あいつは」
私は寒さでかじかんできた指先を温めるように、メールを高速で打ち始める。呪いのように「早く来い、早く来い」と書いて送信ボタンを押す。
小学生の頃は学校帰りに毎日遊びたおしていたこの公園もここ何年かで、地方の村が過疎化していくように昼間でも人気がなくなってしまった。
何の変哲もないブランコにすべり台、砂場にジャングルジム。その一つ一つに小学生の時の思い出が、悲しいぐらいたくさん詰まっている。
私より二足先に生まれたあいつとの思い出なんか、それこそ数え切れないぐらいあるだろう。
寒さを我慢できなくなった私が、二回目の呪いメールを送ろうと携帯に手をかけたところで、やっと十字路の角からあいつがやって来た。
「悪い。待たせた……、みたいだな」
「こんな時間に電話で叩き起こした挙げ句、この寒い中私を待たせるなんて見上げた根性ね。この前みたいに期限ぎりぎりのレポート代わりに書いてなんて言ったら、デザートバイキングの奢りだけじゃ済ま」
私は早口にそうまくし立てながら、あいつ――和彦が何かを後ろに隠すように持っていることに気づいた。
私の視線を捉えると和彦は照れたように笑いながら、それを差し出した。
「ほい、これやるよ」
和彦の手の上には小さな鉢に植えられたサボテンが、ちょこんと乗っていた。
そのあまりの唐突な贈り物に、私はしばし言葉を忘れてどこか可愛いサボテンをじっと見つめた。
「……これを私にどうしろと?」
「だからあげるって。俺だと思って大事にしてくれよ。そいつ、まだ赤ちゃんなんだから」
「赤ちゃんって……。でもサボテンなんて育てたことないよ。それにどっちかって言うと私、ドライフラワーの専門」
和彦がぎょっとするのが空気を伝わってきた。昔からこうなのだ。嘘がつけない。思ったことは顔にこそ出ないものの、相当鈍くない人なら何となく感じ取れてしまう。
「サボテンはきっとドライにはなんないはずだ。もともと乾いたところに生えてるんだし」
そう言って和彦は私の手を取ると、冷たい風に身を震わせているサボテンを乗せてきた。
「ちゃんと育てれば花だって咲くかもしれないぞ」
クリスマス前の子どもみたいに楽しそうな和彦を見ていると、つい私まで嬉しくなってきてしまう。
私はサボテンを片手に持ったまま、軽くブランコを漕いでみた。錆び付いた鉄の音が、静寂を壊すように辺りに寂しく響き渡る。
鉄の柵に寄りかかっていた和彦もつられたように、私の隣のブランコに立ち乗りすると勢いよく漕ぎ始めた。
「あのさ」
言いにくいことを口にするときの和彦の声だった。私はふと嫌な予感が背中を這ってくるのを感じた。けれど私が、聞きたくない、というより先に和彦は冬の空に向かって言葉を放った。
「俺、留学することにした」
ぽんっと投げ出された言葉の意味を私が理解するまでに、少し時間が掛かった。数秒の間をおいて私は小さな声で、そうなんだ、とだけ言った。他に言葉が見つからなかったのだ。
「あ、それでサボテン。私に育てろってわけね。ドライフラワーになってもいいってのは、そういうことか。あー、なるほどね」
「おいおい、落ち着けって」
和彦が苦笑しながら言った。
「べつに落ち着いてるけど」
嘘だった。本当は自分でも信じられないぐらい動揺していた。いきなりこんなことを言い出す和彦が、憎たらしく思えるほど混乱していた。
さっきよりも殊更に風が冷たく感じた。いつか見た温暖化が原因で世界が凍り付く映画の中に突然放り込まれてしまった気がして、私は犬のように身をぶるぶると震わせた。
和彦の漕ぐブランコの音がいやに大きく聞こえる。キィーコ、キィーコ。しばらくその音だけが主役の座を占めていた。
ふいに和彦はブランコから飛びおりると、私の前に立った。ただでさえ和彦は大きいのに、こちらが座っているから欧米人のように巨人に見える。
「な、なんだよ。なにも泣くことないだろ」
慌てふためいた和彦の声で、私はそこで初めて自分が泣いていたことに気づいた。あまりにも勝手に流れ出していたから、全然気づかなかった。こんな自然に泣くなんてことあるんだ。頭の隅でそんなことを考えている自分に、思わず笑いが零れる。
突然笑い出した私を不審がりながらも、和彦はほっとしたような顔をした。いくつになっても女の子の涙に弱いやつだ。
私は頬に張り付いたまま凍りそうな涙を手の甲で拭うと、気になったことを尋ねてみた。
「で、どのくらい」
「なにが?」
「だから、向こうに行ってる期間。何年も行くの?」
私の質問に和彦は少し迷ってから、びしっと二本の指を突き立てて見せた。
「二週間?」
「二年」
和彦は私の冗談に笑いもせず真面目に答えると、悩みを打ち明ける小学生みたいにそわそわし始めた。
「なに、なんか言っておきたいことでもあるの? 俺が帰ってくるのを待っていてくれ、とか? あ、そうだ。梨花さんにはもう言った?」
私は自分の臭い演技に恥ずかしくなって、話題をすり替えた。
梨花さんというのは和彦の彼女で、私にとっては良き相談役だ。頭が良くてスキーの腕前は一級品という出来た彼女で、平凡な和彦にはもったいないぐらいの人だった。
「明日の三限、同じ講義取ってるからそのときに言うつもり。いや、そうじゃなくて」
和彦は自分の優柔不断さに焦れたように頭を掻くと、思い切ったような目を向けてきた。
「梨花は全然ってぐらい心配ないんだけどさ、おまえは……俺いなくて平気?」
真剣にそう言った和彦を見て、私は思わず吹き出した。
「あははっ。やだもう、なにそれ。昼ドラみたい」
「な、なんだよ。こっちは心配して言ってやってんのに。ただでさえおまえは大丈夫かなーとか思ってるときに、いきなり泣き出すし。知ってるだろ、俺なにが苦手って女に泣かれるのほど苦手なことないんだよ。特にガキの頃から一緒にいるおまえに泣かれるのが、一番やりにくいんだぞ。抱きしめるわけにもいかないし、かと言って放っておくわけにもいかないしで」
私は少しだけ笑いを収めると、心配性の和彦に言ってやった。
「大丈夫に決まってるでしょ。もうガキじゃないんだから。だから和彦は安心して、オーストラリアでもアメリカにでもいってらっしゃいな」
太陽はまだ昇りそうもない。さっきからひっきりなしに冷たい風が、私たちの体温をごっそり奪い取って去っていく。
どうやら春はまだ当分先のようだ。北風にさらされて乾燥してきた髪を見ながら、私は思った。
「本当だな? 俺が向こう行ってから、今すぐ来てぇーなんて言うなよ。梨花の頼みならすっ飛んでいくけど、おまえの呼び出しは無視だからな、無視」
「お生憎様。私にだって、すぐすっ飛んできてくれる人いるんだから」
和彦は驚いたように目をむいた。私の見栄をそのまま受け取って慌てる和彦に、無性に嬉しくなった。
それからしばらく私たちは、寒い公園でくだらない話しに明け暮れた。
もうこんなふうに和彦とバカみたいな雑談をすることができなくなってしまうかと思うと、いくら話しても足りない気がして私のお喋りは止まらなかった。それは和彦も同じらしく、他愛のないことを言っては笑っている。
「俺さ……バカだよな」
だから和彦が突然真顔になってそう言ったとき、私は咄嗟の返事ができなかった。
なにを今更、と笑って言えないくらい和彦の声は静かだった。
「本当はいまごろ梨花にサボテンあげて、梨花と話してるはずなのに、なんでおまえと笑ってんだろ。おまえは全然気づいてないみたいだけど、梨花……おまえにヤキモチ妬いてるんだぞ」
私は和彦の言っている意味がわからず、首を傾げる。
ブランコ前の柵に腰を軽く掛けていた和彦は、これみよがしにため息をついてみせた。
「だよなぁ。やっぱ気づいてなかったか」
「だから何が?」
私の手のひらに収まっているサボテンを指さしながら、和彦は怒ったような照れたような、曖昧な笑いをしながら言った。
「だから……、そういうことだよ。もうこの辺で察してくれよ……」
サボテンと和彦の顔を交互に見て、私はやっとその意味を理解した。が、まだ今はあえて気づかないふりをする。きっと私たちには、このさじ加減がいいのだろうから。
「二年後、楽しみだね」
「ああ。変な男に引っかかるなよ」
「そっちこそ。ブロンド美女に遊ばれても慰めてあげないから」
いつの間にか辺りは朝日で眩しく照らされていた。眠りについていた家々が、黄金の光を浴びてやっと目を覚ましたようだ。
春はもうすぐかもしれない。太陽にあたためられ、私はふとそう思った。