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天は二物を与える(投稿者:紅崎 菜夜良氏)


 ――突然で悪いんだけど。

 私は今、階段を転げ落ちている真っ最中。でも決して私に非があるんじゃないの。
 私をこんな目にあわせた奴がいるからこそ、こうやって平衡感覚の失せた状態でいるのよ。
 なんで階段から落ちている最中だというのにこんなに余裕なのかというと、単に現実逃避しているだけなのだけれど。
 …ふいと諦めの笑みを走らせた瞬間、私は強い衝撃を感じていた。
 階段の下の床は飛び込んできた私を無表情で迎えてくれる。まずは背中を打ち、無様に転がる私。
 この痛みをなんていったらいいだろうか、だけれど悲しいことに私にとっては慣れてしまった感触だった。
 ああ、床が冷たいわ。まるで世の中の風のようね。目の前に散乱した本のなんて恨めしいことかしら。
「相変わらず見事な落ちっぷりだな。満点をやるぞ」
「…世界階段落ち選手権があったら是非出場してみたいものよ…」
 上からかかる声に、私は精一杯の皮肉で言い返してやった。
 もちろんダメージを与えられるわけないと分かってはいるけれど、言わないともっとみじめになるから、ね。
 拳を握って重々しく起き上がり、階段の上の人物を見上げる。
 ずっとずっと上の、後光の差し込める姿はまるで神様のようだけれど、私にとってこの神は不幸と破滅を司る、いつしか滅するべき神。
 彼は眩しいような笑顔でこちらを見下ろしている。
 ああ、笑顔だけだったらそのどんなに可愛いことかしら。天は二物を与えずという言葉は彼の為にあるのだと私は胸を張って言う自信があるわ。

 …まあ、それはともかくとして。
 この私ことフィナは、あられもない格好で地にひれ伏している哀れな17歳。
 対して階段の上でのうのうとしてるのが一ヶ月前にこの研究室に入ってきたエゼルという憎たらしい青年。
 頭はいい癖に、暇さえあれば私にちょっかいをだしてくる愚か者、とも言えるわね。
 くるくると持っていたペンを指で回しながらエゼルは階段を下りてきた。
 先ほど、私が資料を部屋に運ぼうとして階段を下っていた矢先に彼が足をひっかけたのがこの事件の発端。
「だってお前はいつもおもしろいくらいに引っかかるからさ」
「余計なお世話よっ」
 私はぷいとそっぽを向いて資料を拾いはじめる。
「手伝うよ」
 すると彼もまた膝をついて私の荷物を拾いはじめた。
「あのね、誰のお陰でこうなったと思ってる?」
「いやあ、自分でしたことの後始末は自分でつけなきゃなあ」
「だったら私のこの精神的かつ肉体的苦痛をどう始末するっていうのよ!」
「ああ、それは大問題だ。」
 …幼さが残る顔立ちをしているけれど、もう18歳と聞いている。
 やわらかな黒髪に、研究員らしい細く白い体つき。
 優しげな光を宿す瞳に笑いかけられた初対面の時はほんの少しときめいたものだったけれど…。
「…というかここは空気がこもりすぎだぞ。なんて研究室だ、こんなんじゃいつか酸素不足で研究員に死人が出る」
 突如そういうなり、彼は拾った本をまた全部投げ出して廊下の窓を開けにかかった。
 ちなみに投げ出された本は不幸な私の脳天に直撃していたりする。
「ちょ…っ」
「ほらフィナ、今日の風は気持ちいいぞ?」
 しかし私はそんなに風を感じていられるほど暇じゃない。研究レポートの提出で超特急の大忙し。
 だからこんな大量の本を上の階から借りてきたのに…というわけで結論、私は完全に無視することにして、自分の荷物を拾う作業に没頭した。
 本は全部で12冊ほど。女の私が運ぶのにはちょっと重たいかしら。
「おーい、フィナ、お日様浴びないと光合成できないぞ」
 あいにく私は植物じゃない。
 やがて全ての散乱したものを拾い上げて腕に抱え込むと、私はさっさと下の階段へ足をかけようとした。
 ―――矢先。
「き、きゃああっ!?」
 私は抱えていた本を取り落としそうになって慌てて数歩たじろいだ。
 当たり前よね、目の前、鼻の先にエゼルの顔があったんだから。
「ななな、なんで突然そこにいるのよ!」
「フィナが気付いてくれないから自己アピール」
 …ため息しかでなかった。
「最近の若者は自己アピールが出来ないと聞くからな。これでも俺なりに」
「つまり一緒に窓辺に来いって言いたいのね?」
「おや、よく分かってるじゃないか」
 にかりと笑って背を向ける。ふわっと香るせっけんの匂い…、男なのにね。
「3分だけよ」
「えー、せめて3日」
「3秒ね」
「そんなご無体な」
 私は一度、重たい本を床に置いてからため息交じりに廊下の窓まで歩いていく。
 ほんの3メートルの距離なのに、なんだかとても長い気がした。
 エゼルはその脇に立って迎えてくれる。
 そうして、私はその窓際に、立つ…。

 ――ぶわぁ…っ……

 のびやかに広がる空の青、まばゆい光でその存在を訴えかける太陽。
 眼下には、人が住む町の色…。
 そうして、私の亜麻色の長い髪が吹き抜ける風にたわむれるようにして踊りはじめた。
 首筋を風が撫でる感触はなんだか心地良い。思わずふっと力を抜いて窓辺に手をついた。
 そういえば、最近は忙しくてほとんど昼間に外出してなかったわね…。
「さーて、ここで問題です。」
 横を向けば、いつもの笑顔。髪と一緒に着ている白衣もぱたぱた揺らめいている。
「俺たちは、何故研究をするのでしょう?」
 ふっと心の中にまで風が吹き込んできた気がして、一瞬だけ息が詰まった。
 その瞳は太陽の光を一杯に浴びているのに、いつもよりも深みを増していてまるで底が見えない。
「…人々を病気から助けるために決まってるじゃない」
 …私自身、家が診療院だったから幼い頃から苦しんでいる人々は沢山見てきていた。
 だからそんな人たちが減ればいいと思って、この研究室へと弟子入りした。だって、苦しんでいる人を見るよりは、幸せな人を見る方が嬉しいじゃない?
「不思議だなあ」
「なにがよ」
「人間って、不思議だなーと」
 …私はこの青年の方が八百倍程不思議である。
「…あなたは人間に化けたモノノケかなにか…?」
 冷ややかな視線を送ってやるが、案の定にこりと笑う彼にダメージは見えない。
「それじゃ、人間の他に自分たちを生き永らえさせようとする種族を見たことがあるかい?」
「ないわよ。だって人間だから情を持ってして他人を愛し、助けようとするんだから」
 それが『人間らしさ』だと思うし、私が人間を愛する一番の理由だと思っている。
 …というかこの青年はさっきから一体何を聞いているのかしら。
「じゃ、なんで病気があるんだと思う?」
 ぶわっと一層強い風が吹き込んできて、私は目を細めた…。
 空の高いところで雲が流れていく、その下で人々がそれぞれの生をもって流れていく、そんな光景を肌で感じながら――。
「…それはウィルスの関係だってあるし、遺伝子の」
「あーストップストップ。これだからお日様浴びてない奴は」
「はあ?」
 言葉を遮られた私は眉間にしわをよせる。
 ただ、彼の瞳が不意に遠くを見るそれに変わった、…その表情に思わず吸い込まれそうになってしまう…。
「どんな生き物だってな、全員が確実に生存すればネズミ算でどんどん数が増えちまうだろ? でもな、この世界には存在していい命の数が決まってるんだ」
 多分、これを普段に聞いていたらどこかの宗教信者の妄想と思って聞き流していただろう。
 …でも何故だか今は、心地良い歌を聞いているようにその言葉が胸に染み入る。この風のお陰かしら…?
「だから命は病気をしてそれぞれいくつか数を減らすことをプログラムした。つまり医学ってのはそれに反する邪道といってもいいんだ」
 …人間が増えて栄えれば栄えるほど、森は減って他の生き物の住処はなくなっていく。
 私はもう一度眼下の町並みに目を向けた。溢れる食べ物、みるみる減っていく深い森。
 ひかりに煌く町が一瞬だけ、全てを飲み込む巨大な渦に見えたのは、私の目の錯覚だと思う…。
 一瞬だけ心が震えるような寒気がした気がして、…でもそれを信じたくなくて、無意識に自分の腕を抱きしめていたのを風のせいにした。
 そんな私に気付いたように、エゼルはまたにこっと笑って続ける。
「まあ、それでも守りたい、助けたいと思うのが人間だからなあ。そうそう…」
 うんうんと自分で納得したように頷きを繰り返すエゼル。
 困惑した顔で私はそれを見つめていたが、…不意にその手が伸びたのに肩を飛び上がらせていた。

「ち、ちょっ…」
 大きな手にするりと頬から耳、そうして髪へと触れられて。
 頭の隅でこんなに大きな手をしていたのか、と他人事のように考える。
「俺も大切なものは守りたいし、な」
 あまりにやわらかで、綺麗で、そして穏やかな声…。
 どこまで続くか分からない空も、町の人々の笑い声も、風の歌声も、全て…全てが消えていく……。

 そうして、彼はいたずらっぽく笑いながら手を離してまた窓の外に目をやった。
「うーん、人間ってやっぱり不思議だ」
 遠くぼやけたところでそんな言葉を耳にする。
 触れられた頬にはその感触が驚くほどに残っていて、妙に熱いと思ったらもう顔が真っ赤になっているのだとやっと理解した。
 といっても、そこで何かを言い返すことは不可能になっていたのだけれども。
 無力な私は一生勝てないであろう彼の横で、しばらくぼんやりと空を眺めることしか出来ない。
 なんだか…悔しかったけれど…。

 …だけれど…その心地良さも確かなものとして、残っていた。
 やわらかな風が吹き抜ける彼の隣。
 彼の瞳には、一体今何が映っているのだろう?
 そしてその不思議でゆったりとした居場所にいたいんだ、と勝手に呟いた心に諦めの苦笑が漏れる。
 まだ全て譲る気にはなれない…けれど、もしこのままの時がずっと、続けば…。

 …そうね、天はニ物を与えずっていうけれど…、もしかしたら…もしかしたら、二物くらいは与えてくれるのかもしれない、…ぼんやりとそんな風に考える。
 さすがに三物はくれないのだろうけれども――、

 …でも、それもまた一興なのかもしれない、それはそんな風に感じたはじまりの午後――。


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