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行く川の流れは絶えずして(投稿者:秋里八束氏)


 小さな箱の中に流れるわずかな波と握りしめている手のぬくもりだけが、やえの生きている証だった。
 酸素マスクに半分以上覆われた妻、やえの顔に、苦悶の表情がないのだけが唯一の救いだ。やえの意識はもう一週間近くもここにはない。
 重い表情で主治医にあと二日が山だと告げられたとき、延命治療をやめてほしいと頼んだ。意識はもう戻らない。あとは少しでも楽に旅立てるよう、つらい選択だがそれを願った。
 ベッドを取り囲む息子や娘、そしてたくさんの孫、ひ孫たち。みんなが息を飲むようにやえの様子を見守っている。みんなお前がかわいがり、愛を注いだ者たちばかりだ。
 
 
 
                  ◇ ◇ ◇
 
 
 
 やえと出会ったのは昭和十九年。俺は十九、やえは十七になったばかりだった。
 戦争の影が田舎にも押し寄せ、農家の次男坊だった俺のところへもいつ赤紙が来るかわからない状況下、世の中の産めよ殖やせよの言葉に押されて、周囲に勧められるまま簡単な祝言を挙げた。
 話したこともない女との結婚。やがて俺は戦地へ赴くことになる。どうせ俺は種だけを残して死んでいく身なのだと捨て鉢になっていた。
 見知らぬ男のもとへ嫁いできて、夫は無口でろくに話もしない。やえは不安でたまらなかったことだろう。まだ十七なのだという労わりの気持ちも持てなかった。
 国坂家の血を残すという役割が果たせたかどうかも確認できないまま、召集令状がやってきた。結婚後、わずかニか月半のことだった。
 子どもなどできない方が、やえにとってもいいことだろうと思った。もしかしたら帰ってくることはできないかもしれない。父親のいない子どもは、やはり不幸になるだろう。こんな世の中だから余計に。
 戦地へ赴く日、ぐあいが悪いと言っていた体を押して、やえは俺を見送る家族の隅でこっそりと涙を流していた。二か月半で情が移ったわけではないが、やはり少しは胸を打たれた。
 
 
 
                   ◇ ◇ ◇
 
 
 
 三年の歳月が過ぎた。もう生きてふるさとの土を踏むことはないかもしれないと考えていた。戦地ではいろんなことがあったが、もう思い出したくはない。
 死んでもいいと思っていた。だが、死ぬかもしれないと思った瞬間に、やはり死にたくないと願う心の底には、俺には家族がいるという思いがあったからかもしれない。
 一度だけ届いたやえからの手紙には、元気な男の子が生まれたと記してあった。そして、誠吉サンガオ元気デ帰ラレルコトヲ心カラ願ッテイマス───と。その言葉が俺の何かを変えた。
 敗戦という形で戦争は終わった。
 帰りたい。ふるさとへ。やえのもとへ。まだ見ぬ息子、直義に会いたい。
 その思いを胸にふるさとの港へ降りた。たくさんの迎えの人たちに囲まれた。なつかしいふるさとのなまりに包まれる。
「誠吉さん……おかえりなさい」
 結婚生活わずか二か月半しかともに暮らさなかった妻がそこにいた。腕に抱かれているのは、俺の子ども時代を思い出させる面差しの息子。俺に指をさして、あれはだれと問いかける。
「直義」
 手紙に書いてあった息子の名を呼んで抱き上げた。妻と息子の元へ帰ってきた。
 ───もう戦争は終わったんだ。
 改めてそう思った。もう死ぬことに怯えなくてもいいんだ。



                  ◇ ◇ ◇
 

 
 ふるさとには思っていたほどの戦争の傷跡はなかったが、いろいろな物が不足していた。なによりも子ども時代を一緒に過ごした友が、育んでくれた身近な人たちが、戦争や転居で姿を消していた。やえの父も終戦直前に亡くなったという。
 もう前と同じではないのだとさびしさを抱えながらも、これからは母と妻と息子、自分の家族を養っていかなければと必死で働いた。
 やえは献身的に俺を支えてくれた。貧しくても幸せだった。十九のときには持っていなかった感情に支配されている自分がいる。
 やえが愛しい。
 日本男児たる者、表には出せないが、俺の中でその気持ちはどんどん育っていく。
 やえの中に二人目の命が宿るころ、半島で戦争が始まった。隣の国のこととはいえ、戦地で何度も出会った死の恐怖を思い出す。
 やえの笑顔のために、子どもたちのために、俺は何が何でも生きるんだと心に誓った。
 友人と始めた仕事も軌道に乗り、我が家にはいつも子どもの声と従業員たちの話し声でにぎわっていった。
 そんな中で、やえはいつもこまやかな気配りとやさしさで、無口な俺を助けてくれていた。
 やがて子どもたちも巣立っていくときが来た。ひとり、またひとりと家を出て行った。
 直義も嫁をもらい、俺たちの家のそばの離れに住むようになった。
 新婚時代とはいってもほんの二か月半だった。再会したときにはもう直義は三歳だった。
 突然やってきたふたりだけの生活にとまどっているのは、俺だけなのかもしれない。やえの様子はそれまでとは変わらない。
 お互いに歳をとった。やえは、かなりふくよかになった。だが、子どもを産むごとに丸みを帯びてくる体とともに、母親だけが持つ包み込むようなやさしさがにじみ出ているように思える。
 無口な祖父のいる家に孫たちが遊びに来るのは、やえがいるからにほかならない。俺も人並みに孫は可愛いと思うのだが、孫たちが寄ってこない。いつもやえをおばあちゃん、おばあちゃんと取り囲んでいる。
 
 
 
                  ◇ ◇ ◇
 
 
 
 それは突然だった。穏やかな幸せを切り裂くようにやってきた。
 吐血して倒れたやえが運ばれた病院で、医者に宣告を受けた。
「白血病です。かなり……悪性のものだと思われます」
 しばらくはピンとこなかった。気が動転していたのだろう。後で直義に聞くと、医者は、やえの病気は治る見込みはないと言ったそうだ。それは、やえの死を意味する。 
 いつもきちんと染めていた髪がだんだん白くなっていく。やがて薬の副作用で髪が抜け落ちていく。明るかったやえに笑顔が見られなくなってきた。
 こんなときに気のきいたことも言えない俺は、病室にいても黙って座っているだけだ。それでも俺が帰るときに必ずやえは、また来てくださいねと言う。わかったと返事をして病室を出るときには、いつも胸をしめつけられる。
 やえと一緒にいられるのもあとわずかなのだ。やえが俺のもとを去ろうとしている。
 これだけは変えることのできない事実なのだ。なぜ、俺ではなくやえが───?
 
 
 
 
                  ◇ ◇ ◇
 
 
 
 いつのまにか病室は、やえの姿を見つめる者たちでいっぱいになっていた。やえとの別れのときを待っているような、この雰囲気が重く苦しい。
 血圧計はもう人間のものとは思えないような数値を指している。素人の目にもそのときは近いのだと感じた。
 そして、やえの命の動きを表していた電子音が途切れた。
 医者は、他界されましたと静かに告げた。
「……やえ?」
 やえの体にとりすがる娘や孫たちの泣き声にかき消された。握った手は、まだこんなに暖かいのに、やえはもう手の届かないところに行ってしまったのか。
 初めてやえの手にふれた夜を思い出した。若々しくつやつやしていた手で俺を抱きしめ返してくれたことも。港で再会したときに荒れていた手は、生活の厳しさを感じさせた。 この手はもう、俺の手を握り返すことはない。
 孫たちがおばあちゃんと呼び叫ぶ声も、もうお前を呼び戻すことはできない。  
 酸素マスクをはずされた顔を見て、初めて涙が込み上げた。
 苦しんだはずなのに、穏やかな表情だった。まるで、ただ眠っているだけのように。
「わたしは絶対、誠吉さんより長生きしますよ」
 そんなことを言って笑う若かったころのやえの姿がよぎる。
 どんな嘘をついてもいいから、そのことだけは守ってほしかった。長生きすべきなのは、やえの方なのだ。こんなにもたくさんの者たちがお前を惜しんでいるというのに。
 戦地で死ぬかもしれないと思ったときよりも、やえを失った今の方がずっとつらい。この思いをずっとこの身に引き受けて生きていくのか。
 残された者の痛みというのは、なんとつらく残酷なものなのだろう。
 
 
 
                 ◇ ◇ ◇
 
 
 
 俺もすぐに召されることを願った。だが、俺は今もこうして生きている。
 何度もあの日を迎えて、それでもまだ生きている。
 悲しみは薄れていくが、やえを大事だと思う気持ちはますます募っていく気さえする。これも迎えが近いせいかもしれない。召された先でも、やえのことを覚えていられるように。
 もっともっと歳をとっても、自分の名前を忘れてしまっても、俺はおそらくやえのことを忘れはしない。
 やえのやさしさ、やえの笑顔、俺を呼ぶ声、そして俺にくれたたくさんのものを。
 穏やかな日々は変わりなく過ぎていく。そのときを迎えるのを待ちながら。


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