大恋愛!(投稿者J氏)
大恋愛!
そんなタイトルの映画が流行ってるらしい。
「知ってる?」
レジの後ろの本棚を整理している比奈野に聞いてみた。
「さー。そんなこっぱずかしいタイトルの映画を見る趣味はないから」
こちらに見向きもせず答える。
そんなナリをしてよく言うよなー、この兄さんは。
彼が後ろ向きなのをいいことに、ちょっと体をそらせて比奈野をじっくり眺めた。
白いコットンのシャツと、はき古した色合いのジーンズ。私はただのぼさぼさロングヘアだけど、彼のはワックスかなんかつけて形づくった人工的な無造作ヘアだ。
骨格の幅も腕の長さも脚の太さもそこそこあって、私とは別の生き物なんだと教えてくれる。
家業のこの本屋で働きだしてけっこう経つけど、書店名が入ったキャンバス地の赤いエプロンがこれだけサマになる男を他に知らない。
「実はさ、気になって仕方ないんだよね。タイトルもなんか思わせぶりだし、あの俳優も嫌いじゃないし……ちょっと見てみたいなー、なんて」
「なんだ、早く言ってくれればいいのに」
「え?!」
意外な比奈野の反応に、文庫カバーを折っていた私は急に姿勢が正しくなってしまった。
「見たいんですか?」
「う、うん」
「じゃあ割引券ありますよ、ホラ。さっき店長が置いてってくれたし」
細長い割引券の束をぴらぴらっとさしだして、比奈野は人の良さそうな笑顔を作った。
「これ割引額は大したことないけど、ま、俺のじゃないしタダなんだし遠慮しないでどうぞどうぞ」
さあ、という感じでぐいと前に突きだす。私はひっこみがつかなくなって2枚引き抜いた。
比奈野はそれを確かめてから満足そうにニッとくちびるをつり上げて、また本棚に向き直る。取り置きを頼まれた文庫本をダンボールから本棚に移しかえる作業に戻った。
「五月さんてそういう映画も見たりするんだ? もっとオドロオドロしい、血まみれナントカとか死霊ナンタラとか、見たら呪われそうなのが好きなのかと思ってた……ほら、こんなやつ」
言いながら、ホラーコミックの表紙を私に見せる。
確かにホラーは嫌いじゃないけど……そんなさぁ、清涼飲料水みたいに爽やかな顔で笑いながら言うなよキミ。
びっくりして、心臓ばくばくしちゃってほっぺた熱くなってきちゃったじゃんか。しかも今日は髪が爆発的にハネてたんだってことも急に思い出したし……何なのよ。
でも、目尻があんまりいい具合に下がったから、比奈野から目を逸らしたくなくなった。
両腕をまっすぐ伸ばしてホラーコミックを思いきり遠ざけたかっこうで、気味悪そうに目を細めながらぺらぺらページをめくっている。
もっと見ていたい。もっと比奈野に近づきたい。これまでにないくらい強くそう思った時には、その白いシャツをひっぱっていた。
「あ?」
振り向いた彼の瞳がまっすぐ私を射る。
「ねえ、いっしょに見に行ってくれない?!」
私の心臓は、そりゃもう頭のてっぺんまで持ちあがっちゃったみたいな勢いで動いてたんだけど。
比奈野のひきつった口元を見たら、今度は心臓がひゅんと足まで落ちた気がした。
「えええ?! ホラー映画はダメっすよ、俺!」
のけぞるような体勢で答えをくれた彼に、体中のちからが抜けた。
「……違うんだって、ヒナ」
ったく、誰が誘うかそんな色気のない映画に。
「さっきの――『こっぱずかしいタイトルの映画』のほうを言ってるんだってば」
拍子抜けした私の声を聞いて、白いシャツの肩がほうっと下がった。
比奈野のバイトが入っていない日を選んで、私たちは映画館に行った。
『大恋愛!』は、なかなか面白い話だった。
タイトル通り大恋愛に陥ってる女性が主人公。彼女には、寝ても覚めてもすさまじい色男に見える同僚が一人いる。
でも実際は誰の印象にも残らないごく普通の青年で、周りの友達はひとりハート目で熱くなってる主人公に首を傾げるばかり。だけどそれには何のトリックも媚薬もなく、すべて偉大な恋の病がなせる業なのだという。
ラストは、見ているこっちがこっぱずかしくなるくらいのラブラブハッピーエンディングだった――。
見終わって映画館を後にした比奈野と私は、駅に向かって歩いていた。
夏の終わりの夕闇が、私たちを包みこむ。どこかのお店の窓から、お醤油の焼けるいい匂いが漂ってきた。
「できすぎだよね、あんな話」
私の声は独り言みたいになった。
となりを歩いている彼は黙って聞いているようだ。信号が赤に変わって、横断歩道の手前でいっしょに立ち止まった。
「映画の中みたいに何でもかんでも良く見えたらさー、普通じゃいられなくなったりしないのかなあ」
「普通じゃいられなくなる?」
「そう。困るでしょ? その人のこと考えると心臓ばくばくしちゃったり、夜眠れなくなったりしたら」
一拍おいて比奈野を見やる。
「他のことはなんにも考えられなくなっちゃって、ひとりの人だけずっと見てたくなったりそばにいたくなったり、会ってる時は妙に浮ついた気分になったり」
「なんだかずいぶん具体的ですねぇ」
「だってほんとにいるんだもん。つやのある黒い髪とか、Tシャツ1枚でもサマになる肩幅とか、笑った時に見える小さな八重歯とか、少し茶色がかった瞳とか。ちょっとしたとこがめちゃくちゃかっこよく見えるやつ」
言い終わったところでぐぉとか、ぐひとかいうような声が比奈野ののどからもれた。
「誰だそれ? 五月さんの目にはそう見える男がいるんだ?」
「まあね」
「ふーん。さっきの映画みたいですね」
――あれっと思った。
誰かがそんなにかっこよく見えるなんて、そう、偉大な恋の病にかかったさっきの映画の主人公そのままだ。
じゃあ私は、恋をしてるってこと?
誰に?
考えて、となりを見る。
比奈野は通り過ぎてゆく車を眺めていた。夕暮れの日差しをまぶしそうに遮る形のいい指先。でっかい手首。
今日はいつもの赤いエプロンをしていない。どこかのチームのロゴがついたベースボールキャップをあみだにかぶり、その下からはねたような毛先が見える。
普段と同じTシャツとジーンズだけど、やっぱり立ってるだけで自然と目が吸い寄せられる。
胸がどきどきしているのは、いろいろ考えすぎたせいだ。きっと、そうだ。
「その人って、もしかしたら、なにをされても嫌いになれない人?」
比奈野の問いかけを、横断歩道のシマシマを見つめながら聞いていた。
「例えば、レジ打ち間違えて俺のせいにしたり、落としたお弁当のおかずも『3秒ルール!』とか言ってソッコーで拾って食ったり、趣味悪そうなホラーコミック集めてたりしても嫌いになれない人とか?」
……誰ですかそれ?
思い当たる節がありすぎてサッと横を向いたら目が合った。
ふきだしそうなくちびると、答えを急かすような瞳。
「さ……さすがにコミックは集めてないよ」
「へえ? じゃあ俺の予想はハズレた」
天気の話でもしてるみたいな口調だった。
「おかしいな」
と、勝手につぶやきながら首を傾げている。
急に胸が騒がしくなった。
「……でも、もしかしたら本当はそんなにかっこよくなんかないかも。やっぱりあの映画みたいに全部まぼろしで、真実の姿は他の人の目から見たらぜんぜん普通で。それどころか、みんな指さして笑っちゃうくらいブ男なのかも」
「うわひでぇ」
比奈野が肩を揺らして盛大に笑う。
どんな態度をとられても、意外な表情を見せられても嫌いになんかなれない。だから好きになるのか。
それとも、好きだから何をしていても魅力的に見えてしまうのか。もうどっちがどっちだかわからなかった。
恋愛なんて……案外みんなそんなものなのかもしれない。
うーん。でも、やっぱり私はいや。
そんなに簡単に落ちてたまるもんですか。
大恋愛なんて――あんな面倒なこと。
「ねえ、やっぱりホラーのほうが好きだな私。今度は血がばーばー飛ぶようなやつにしようよ」
「……楽しそうですね、五月さん」
比奈野がげんなりした声で言った。でも顔は笑っていた。
私の肩と彼の腕の間に鼓動ひとつ分の距離を空けたまま、信号が青に変わるのを待った。
じっと見つめていたら比奈野の目が私をとらえて、ん?て感じで首を動かす。
その様子がひどく神経を刺激して愛しくて、やっぱりこれだけの男前をブ男なんて思う人は目が腐ってるに違いない、と首を振って前に向き直る。
長い長い赤信号が青に変わり、私たちはやっと、最初の一歩を踏み出した。