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果てなき道の終わり(投稿者:Aria氏)


車を先に帰して、僕は海沿いの道を歩いていた。
大人、と言われる年齢になっても、あの頃の初恋を懐かしいような想いで回想す ることがある。結婚し、もうじき子供も生まれ、人生は何の疑問もなく過ぎてい く。少しの幸福と少しの不幸、不自由なく恵まれた生活、不満などありはしない 。でも結局、僕は彼女を忘れなかった。常に何事かに忙殺される日々の片隅で、 そこだけ静謐な、時間の停滞する場所。僕の心の中で、彼女の記憶はそんな位置 に定着していた。
夏も終わろうという季節、入りはじめた夕日に照らされ、心地よい海風に吹かれながら家路を辿る。
ふと顔を上げると、長く真っ直ぐな道の先から、小さな人影が歩いてくるのが見えた。華奢な姿は、傍らを猛スピードで飛ばす車にすら吹き飛ばされてしまいそうなほど頼りない。
長い黒髪の持ち主だった。ワンピースの裾を軽く押さえながら、夕日に目を向ける横顔。 僕は立ち止まった。
小柄な人影は、歩みの速度を緩めることなく、近付いてくる。
僕の口は一瞬で干上がり、掛けた声は無様なほど擦れていた。
「雪乃」
それが、彼女の名前だった。
「……礼司さん?」
それは、僕の名前だった。





雪乃と最初に出会ったのは、小学校に入学した頃だったように記憶している。
両親に連れられていったパーティで、彼女は僕を取り囲んだ婦人方の輪から助け出してくれた。
その頃の僕は、精一杯に背伸びをしても彼女を見上げることしかできなかった。
当時で、彼女との年齢差は十を数えていたことだろう。だから、彼女を思い出すとき僕の脳裏に浮かぶのは、筆で刷いたような顎の腺や、細くてしなやかな首の動き、そういったものに限定される。
彼女の長い髪は珍しいほど真っ黒だった。青ざめて見える白い肌も作り物めいて 見えたことを覚えている。白雪姫が本当にいたらきっとこんな人だ、と僕は幼心に思ったものだ。
彼女は九条家の娘で、兄である当主は、いわゆる『若き青年実業家』だった。妹 とされていたけれど、実は養子縁組だったと知るのは、随分後の話になる。
「あの」
「はい。何かしら」
初めて聞いた彼女の声は、硝子を弾いたように透き通っていた。その不思議な響きに、僕は知らず俯いてしまった。雪乃は普通の人が持ちえるべき人間臭さ、というものをまるで感じさせない人だった。無機質で、透明で、なにものにも染まらず、縋らない。彼女の持つそんな雰囲気が僕を怖気づかせていた。
冷たい手に導かれ、広大な屋敷の廊下を歩きながら僕は聞いた。
「どこへ、いくんですか?」
「空気が悪いようですから、九条の控え室に行こうかと……あぁ」
雪乃は一人、納得したように頷いた。
「わたしが、怖いのですね」
「いいえ」
彼女は、僕の強がりなどお見通しだ、というように小さく微笑んだ。
本当は子供扱いされることが大嫌いだった。周囲もそのとおりに僕を扱ったし、「お父様の後を継いで立派な大人に」というのが母の口癖でもあった。僕は両親 の期待を一度も裏切ったことのない子供だった。
けれど、結局僕は反論の言葉を口にしなかった。彼女が僕を子供だからと侮っていないことは疑いようもなかったし、それ以上に、彼女になら子供扱いされても仕方がない、と違和感もなく腑に落ちてしまったからだ。

――不思議な人。

それがこの時の僕の率直な感想だった。

兄だと紹介された男性は、無口な人だった。整った唇の端は優しくほころび、目尻にはふんわりと柔らかいものを滲ませていた。僕が部屋にいる間彼が話した言葉は、「そう」「うん」「よかったね」と、大体この三つぐらいだっただろうか。
彼女がぽつりと何かを話すたび、短い相槌を打ち、また長い沈黙が続く。まるで 空間を切り取って、特別な時間が流れているように思えた。僕は心地よい空気に 身を任せ、いつしか彼女の膝で眠りこんでしまった。

それからも彼女の姿を目にする機会は何度かあった。九条家が招待されていても 、彼女に会えるのはせいぜい五回に一度で、僕は会場を隅々まで探し回ることが 習い性になっていた。
ふっつりと彼女の姿が見られなくなったのは、僕が中学生になった頃だ。同時に彼女の兄の姿も消えた。僕がぼんやりとその事実を認識し始めた時には、九条の名前すら表舞台から消え去った後だった。
彼女の兄、九条冬紀は若くしてこの世を去ったのだと人の噂に聞いたが、妹の行き先は、誰一人として知らなかった。彼女という存在の証すら、どこを探しても見当たらない。たまりかねて九条家を尋ねたけれど、屋敷は既に取り壊された後だった。
更地になった土地を見渡して、その時に初めて僕は悟った。
僕は恋をしていた。
吸い込まれそうな眼の色、流れる髪の一筋、冷たく整った手が好きだった。たった五ミリ身長が伸びただけでも、彼女の目線に近づいたことが嬉しかった。彼女が見る世界を、僕も見てみたかった。その遠い眼差しの先にあるものが僕にも見 えたのなら、どんな手を使ってでも、それを手に入れただろう。
けれど、そうと認識した瞬間、僕の初恋は終わってしまった。望んで得られないものは何一つなかった僕の、初めての挫折だったといってもいい。
想いは、宙吊りのままどこに行くあてもなく、居場所を求めて何年も彷徨うことになった。





僕は彼女を見下ろし、彼女は僕を見上げていた。
雪乃は昔と何一つ変わらなかった。二十年近い歳月が経っているというのに、彼 女からは時がもたらすべき変化の、その片鱗すら伺えなかった。睫の先一つとっ ても変わりはなく、彼女は時を飛び越えてきたかのように昔のままだった。
雪乃は僕が何度も思い描いていた、その数百倍美しい笑顔で微笑んだ。
「大きくなりましたね」
彼女の声はあの独特な響きを僕の耳に届ける。脆く、儚く、また透明なその色。
「……あなたは、変わらない」
「えぇ、そう。わたしだけが、昔のまま」
ふ、と目を細めて微笑む。親に置いていかれた迷子のように、頼りなげな笑顔だ った。
僕は急速に、色あせたはずの感情が鮮やかに蘇ってくるのを感じた。
僕は培ってきたすべてをかなぐり捨てても、彼女と共に歩いていきたいと思った。再び掴んだのなら、その手を二度と離しはしない。子供ではない今の僕ならば、それは十分に可能だった。
僕の情動は傍目にも明らかだったのだろう、彼女は僅かにしりぞき、それこそ子供をあやすような口調で言った。
「わたしは変化を望みません。愛する誰かをなくすことは、いつでも心に痛いも のです。永遠に続く責め苦ならば、せめて軽いものであることを願います」
僕は彼女の語る細かな矛盾に、敢えて目をつむった。それよりも重大なことがあ った。
「あなたが、僕を愛してくれる可能性もある、と?」
「可能性の天秤が傾くなら、その時あなたは死ぬでしょう。冬紀のように」
夕日の残滓が煌めきを鈍くするその寸前、彼女の瞳は燃えるような紅に染まった 。
「あなたは可愛らしい子でした。沢山の女の方に囲まれておろおろしていたあなたは、本当に子供で、つい助けたくなってしまった。わたしを見つけて声を掛けてくれるたびに、戸惑いを覚えたのは確かだけれど……でも、嬉しかった」
彼女は手を伸ばし、子供にそうするように僕の頭を優しく撫でた。彼女の手に導 かれ、僕の中でゆっくりと時間が巻き戻っていく。
「わたしの小さなお友達。冬紀がいなくなった今、あなただけがわたしの大切な 人です」
僕は何もいえなかった。彼女はあまりに愛しげな眼差しで、僕を見つめている。再び命を吹き返したこの恋情を叩きつければ、雪乃は逃げていくだろう。傍らにいて、ただ穏やかに見守ることすらも今となってはできなかった。
「……えぇ、十分です」
沸き起こる愛しさが別れの予感に悲鳴をあげている。僕はそれから必死に目を逸 らすことで、辛うじて笑って見せることができた。きっと恐ろしく情けない笑顔 だったに違いない。けれど、雪乃は変わらない微笑みを浮かべて一つ頷いただけ だった。
ゆっくりと離れていく彼女の手は、やはり冷たい。掴みとめたくなる衝動を抑え、僕は掌を固く握り締めた。
「友人の頼みを、一つ聞いていただけますか」
雪乃は先を促すように小さく首を傾けた。
「あなたに逢いたい。僕が死ぬ前に、一度だけでいいから」
彼女はここにいるのに、再び別れたならばその存在はまた時の流れに埋もれてし まうだろう。これだけ鮮明に焼き付けた笑顔も、いつかは褪せてしまう。それを 思うだけで、たまらなく哀しく、辛かった。
「その時が来たなら、お会いしましょう」
「必ず?」
「わたしの約束は破られません。三度目の奇跡は、あなたが歩く道の果てにあり ます」
す、と指を伸ばし、彼女は前方を指し示す。夕闇が早くも辺りを包み込み、その 果てに何があるのかは分からなかった。
「行ってください」
彼女は僕を見上げ、促すように優しく微笑んだ。
僕はその微笑を食い入るように見つめ、無理やり心を引き剥がすと一歩を踏み出 した。彼女の前で泣くことはできないと、精一杯の虚勢だった。振り返りたくな る気持ちを殺して、更に一歩。
徐々に開いていく距離につれ、早くも雪乃の面影は遠のいていった。彼女の微笑 がどれだけ美しかったのか、彼女の声がどれだけ稀有な響きだったのか。そのす べての記憶が、頼りなく思えて仕方がなかった。
海風が、一際強く吹き付ける。
背中に感じていた視線は、それきりふっつりと消え果てた。
けれど、僕は振り返らなかった。
この道の果てに、僕は彼女と出会う。
彼女はきっと、何一つ変わらない姿で現れ、そして僕に尋ねるだろう。

――わたしが、怖いですか?

僕は、あの時とは違う答えを返す。
その言葉は、妻や生まれてくる子ではなく、彼女のためだけに存在する。
少しでも重荷となることがないよう、死の間際にだけ許される言葉。
その一言を、僕は彼女が歩む道筋に捧げよう。
たった一度だけの想いを、彼女に告げよう。


果てのない永劫の道、その傍らに寄り添うように。


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