仮想空間（投稿者:碧前文月氏）
―――まただ。
光は目を開けた。今が何時であるかはわからない。すぐ近くに時計はあるが、それが正しい保証はない。さっき、時計を見たら夜中の10時だった。そしておそらくまだ朝はきていないだろうから今は真夜中なんだろう、と光は思った。
―――此処は、何処。
光はそう問い掛けた。目だけを信じるのならば、此処は見慣れた光の部屋である。勉強机があって、ベッドがあって、本棚があって。何の変哲もない16歳の少女の部屋。だが、此処は違う。手で感じる触感も自室と同じ。それでも、此処は自室ではない。
では、此処は何処だ？
光はそっと立ち上がった。辺りを見渡せば毎晩同じ景色が見える。自室の形をした異世界。光は10歳の時から毎晩毎晩夜、夢の中で此処へ通い続けてきた。
―――また、私は此処へ来た。夜の世界へ…。
光はこの異世界を夜の世界、と呼んできた。何故ならこの世界は夜にのみ存在しているからである。夜でなければ光がどのようにしていようとこの世界は現われない。また、この世界は朝になると光の頭から消えてしまうのである。こんなに印象的な世界であるのにも関わらず、朝ベッドの上で目が覚めるともう光はこの世界のことを忘れてしまっている。そして夜になるとこうして全てを思い出す。6年間ずっとその繰り返しであったのだから、これからも変わらないだろう。
光はある一点を見つめた。
―――また、あいつがいる。
此処は自室と同じであるはずなのに、とても広い。部屋が広いわけではない。この空間が広いのだ。その広い広い空間の一番奥にその男はいた。いつでも、光が此処にいる時ならその男はそこに立っていた。
―――あの男は、誰？
そう問うても無駄なこと。彼はいつでもあそこにいて、光はいつでも此処にいる。近づくことは出来ない。交わることは出来ない。
だが、だからこそ問う。あの男は誰だ、と。
と、その時光はふと首を傾げた。何かがいつもと違うように感じられたのだ。そしてはっと気付いた。
―――近いんだ。
今日は、いつもよりずっと男と自分との距離が近いのだ。そのことに気付いた光は男の方へ駆け出してみた。
―――もしかしたら、届くかもしれない。
必死で手を伸ばしてみた。
―――今日は届くかもしれない…！
今まではどんなに走ろうと、どんなに駆け寄ろうと近づくことはできなかった。
―――今日なら会えるかもしれない！
広く広い空間を走り抜けて、気付くと体が軽くなり、舞い下りた。光は自分がこんなに軽く走れることなど知らなかった。
顔を上げると、そこにその男がいた。彼をこんな真近で見るのは初めてだった。
―――届いたんだ！！
光はそう思ったが、男は光が此処にいることに気付いていない。慌てたように何かを探している。
光は、思い切って男に話し掛けてみることにした。折角此処まで来たのだから。聞きたいことは山ほどある。
「―――貴方は誰？」
そっと彼の耳元でそう囁いてみた。そうでないと、この空間では彼まで声が届かないような気がした。
「どうして此処いいるの？」
彼はそれでも気付かいていないようで、必死に何かを探している。
「何を、探しているの？」
そう光が静かに問うとやっと彼は彼女に気付いたようだった。そして安心したような笑みを浮かべると光に手を伸ばした。
「…よかった。」
男がそう呟いた。それが初めて光が聞いた男の声だった。
「…何がよかったの？」
男はしっかり光を両手でつかむと抱きしめた。そして彼は呟く。
「急に光が消えてしまったから、不安だった。でも、見つかってよかった。」
光は男に抱きしめながら思う。この人はずっと自分を探していたのか。彼には自分がこっちへ走って来る姿が見えなかったのだろうか、と。
「…貴方は私を知ってるの？」
「ああ、知っているとも。光だって僕のことを知っているだろう？」
男はやっと腕をほどいた。光は男を見上げた。
「貴方の姿と、貴方がいつも此処にいることは知っている。でも、私は貴方の名前までは知らない。貴方は私の名前を知っている。」
「それは君が知ろうとしなかったからだ。」
「そんなはずない。私は何度も貴方を知りたいと思ったのだから。」
「けれど、君は僕が君を知りたいと思った程僕を知りたいとは思わなかったんだ。」
男はそう言って微笑んだ。光は首を傾げた。
「夜の世界では、知りたいと強く願わなければ何も知ることができないの？」
「この世界を夜の世界と呼んでいるのか。」
「…おかしいかな。」
男はいいや、と笑んだ。
「凄く綺麗な呼び方じゃないかな。」
男はそっと光に手を差し伸べた。不思議そうに光はその手を見つめる。
「この世界を上から見渡そう。」
そう、彼に言われて光は彼の手を掴んだ。そんな事が出来るのかどうなのか光にはわからなかったのだが。彼の手を掴むと、また此処に来た時のように体が軽くなった。そして高く高く昇った。
「此処は現実の世界ではない。僕は仮想空間と呼んでいる。」
高く昇りながら男は言った。
「此処での記憶は何故だか現実へは持ち込まれない。僕は目覚めればただの大学生だ。此処のことは何一つ覚えていない。」
光は私も、と声を上げた。光も、目覚めた時には全てを忘れてしまっている。
「僕は現実では高野英信という大学生だ。僕にもこの世界のことはよくわからない。」
「でも、私よりはよく知っている。」
「それはそうだろう。僕は光よりもずっと前からこの世界に来ていたのだから。」
高野はそう言って笑むと下を示した。
「どうだい、これが仮想空間だ。」
光は下を見て思わず声をあげた。そこにはたくさんの人がいて、たくさんの世界があった。それぞれがどのくらいの大きさなのか、此処からどれくらい離れているのか、そんなことは全くわからない。ただ、たくさんあるだけ。
「すごい…。」
「ずっと、君にこれを見せたくて。君が僕の所に来てくれるのを待っていた。」
光は隣りに立つ高野を見上げた。
「どうして？」
高野は微笑した。
「君のことが好きだから。」
高野は下を見渡した。
「此処は人の望みを反映させる空間なんだ。」
光はへえ、と呟きながら彼を見上げた。一瞬のあの言葉。あれは一体どういう意味だったのだろう。
「全ての人が此処に来れるわけじゃない。此処に来れるのはただの偶然で、来れた人でも大した望みを持っていなければ此処へもう一度来るのは困難なんだ。」
光の疑問には全く気付いていない様子で高野は言った。
「けれど、反対に望みを持つ者は此処に一度来れば毎晩此処へ来てしまうようになる。その望みが叶えられるまでずっとね。」
言われて光は下を見渡してみた。沢山の人達が自分の望みを叶えようとしていた。
「これで此処がどんな世界かはもうわかったね。」
高野はでは、と続けた。
「光は自分が何故此処に毎晩来るようになったのかわかったかい？」
「え…？」
聞かれて初めて気が付いた。確かに一体何故だろう、と光は思った。望みを持つ者は毎晩此処へ来るという。
「私が何か望みを持っていたってこと？」
「そうだろうね。」
光は更に考え込んだ。
光が此処へ来てしていたことと言えばただ立ち尽くすことだけ。そこに何か望みらしい物があるとは思えない。
「…わからない。」
光はそう答えると高野に問うた。
「じゃあ、貴方はどうして此処へ来たの？」
高野は光が此処に初めて来た時からずっとこの世界にいた。
「貴方の望みは何…？」
それでもまだ叶えられることのない彼の望み。
「それはいつ叶えられるの？」
高野はしばらく瞬いた後、ふわりと笑んだ。
「光、僕はもう明日からは此処に現われないよ、きっとね。」
「…どうして？」
「もう望みが叶ったからさ。」
「え…？」
驚いたように光は高野を見上げた。
「僕の望みは此処にある…」
高野の手が光の髪を触った。
「君だよ、光。」
今度は頬に触れた。
「ずっと、光に会いたかったんだ。」
高野は微笑んだ。
「ずっと、ずっとね。」
光は彼を見上げ、首を傾げた。
彼の望みは自分に会うことだったというのか。
何故、どうして。
そしてさっきの言葉が蘇る。
―――君のことが好きだから。
高野に聞きたいことは山のようにあった。けれど、口をついて出た言葉は一言。
「じゃあ、もう貴方に会うことはないの？」
高野は少し黙った後、そうだよと答えた。
「もう、此処では会えないだろう。でも、いつかきっと現実の世界で会えるそう、信じているよ。」
「信じて…？」
「ああ。」
それを聞いて何故だか意味もなく涙が零れた。高野が不思議そうに問う。
「どうして泣いているの…？」
「…わからない。」
「…そう。」
高野が微笑む。つられて光も微笑んだ。
―――また、いつか会えるから…。
夜の世界が遠ざかっていく。不思議と満たされているような感覚がしていた。光は目を瞑った。彼とまた会えることを信じて―――。
目が覚めるともう光は夜の世界のことを覚えていなかった。彼女は普通の女子高生に戻っていた。何も覚えていなかった。
いつも通りに学校に出掛けて、部活にでた。何も変わらぬ日常だった。
と、光の目に一人の男が映った。
「新しく来た大学生のコーチだ。」
そう、顧問の教師がその男を説明した。男はまっすぐ光の所へ来た。どうやら、他の生徒達への自己紹介は光が来る前に済ませてしまったらしい。
「はじめまして。新しいコーチの高野英信です。よろしく。」
光はその男を穴が空くほど見つめた。何故だかそうせずにはいられなかった。
「…何か？」
高野に問われて光は慌てて首を振った。ふと涙が零れた。
「どうして泣いているの…？」
「…わからない。」
「…そう。」
高野が微笑む。つられて光も微笑んだ。
何だかとても嬉しかった。この瞬間を待っていたような、とても懐かしいような。
彼は誰だろう。どうしてこんなにも懐かしいのだろう。
光は顔中に笑みを広げた。涙がまた零れた。
現実の世界での物語が今始まる。
―――光は待っていたのだ。高野の望みが叶えられることを。もう二度と光が仮想空間に現われることはなかった。