華やかに流れる(投稿者E氏)
夜なれば立ち込める靄のなかでも妓楼の名を宿す雪洞が牡丹のごとく朱に燃え燈る。
されど未だ喧騒遠き穏やかな昼時分において、重苦しく陽を塞ぐ白き緞帳をうち払うことは、五大国を統べる王とて如何にしても為し得ぬものと思われた。
そのなかにあって、密やかに微笑み交わす花娼たちの視線は、水面に浮かぶ一艘の舟で屍のように身じろぎひとつせず眠る男に注がれている。
「玉葉、起きて!」
男は片膝を無造作に折り曲げて持ち上げ、片腕を水面に潜らせて眼を閉じていた。
舟の縁からは溢れるほどに積まれた手毬花、鉄線、裏白瓔珞、天竺葵、白孔雀、黒花狼牙そして百合水仙などの彩り鮮やかな花々が穏やかな風に舞うようにほろほろと零れる。
「玉葉、あたしに似合いの花はなに」
「だめ、あたしが先よ、玉葉、あたしに投げて」
華やかな声とともに白い手からは垂れ流した帯を伝ってひらひらと蝶が落とされた。
その、降るように見える蝶は捻り折られた薄紫の紙幣であり、花娼の名前の綴られた薄紫のそれは黒火花街でのみ価値を持つ。
花と蝶が触れあい折り重なると、男の体重を受け止める舟が、ぎい、とわずかに軋む音をたて、それを打ち消すほどの、わっという喝采が花娼たちから沸き起こった。
「やあ蝉丸姐さん。今日もすばらしく肌が白くて目が覚めるよ」
高らかに声を上げ、ついいままで眠っていたとは思えぬ流麗な動きで頭に被っていた笠を取り起き上がると、玉葉は花娼たちに対して深々と腰を折った。
「玉葉が眠いのは、どこかの女のところで遊んできたからでしょう?」
「おや唐狛姐さん、姐さんに不実を咎められたとあれば男冥利につきるってもんだ」
次々とかかる声に応えながら、玉葉は浮舟を漕ぐ身の丈の二倍はあろうかという棹を泥の凝り固まる川面の深くに突き刺し、棹を支柱にして空に身を躍らせた。花を渡し、その代金を笠に受け取る。
「玉葉、ねえ、あたしに似合う花をえらんではくれないの?」
「いいや。無骨な男の俺よりも、美しいひとのそばで生きるほうが花にも幸せだ」
玉葉は手にしていた蓮華升麻を花娼の髪に差し、軒先から去り際に花娼の頬を撫でた。
「玉葉のそばになら、あたしのほうが行きたいわ」
「あたしだってそうよ、あなたが無骨な男だなんて、この街の女のだれがいうもんですか」
玉葉に触れられた花娼はうっとりと眼を閉じ、その花娼を押しのけるようにして幾多の手が玉葉にむかって差し伸べられた。花娼たちは髪に生花を飾るのが決まりであり、客はその生花を傷つけることのないように花娼を扱うことが礼儀とされている。
花娼たちの意志を彩る花と引き換えに蝶紙幣を得ながら、玉葉は大きく首を振った。
「俺は無骨で無遠慮で厚かましくて傲慢な男で……、あとはなんだったかな、蜜蟲」
玉葉がちらりと視線を流し問いかけた先には、微笑む花娼たちのなかでただひとり、表情を凍らせた花娼がいた。
声をかけられたことそのものというより、自分がひっそりと玉葉の姿を眺めていたことに気づかれていたことに驚くように、言の葉を紡ぐべき唇はただその柔らかな桜色のみを表し、声もなくうち震えては真珠のごとき歯と息をのむ緊張をありのままに覗かせる。
「どうした、蜜蟲?」
「……どうもしないわ。あなたは忘れっぽくて自分勝手で、そして冷酷なひとよ」
「冷酷、とはまた胸を抉る」
名前の通り長い蜜色の髪を持つ蜜蟲の浮かべる冷ややかな表情と同様、冷たい声で切り捨てるように言われた言葉に、玉葉は仕方ないといった風情で眼を細めた。
「それと、へらへら笑ってばかりで気持ちが悪いわ」
蜜蟲の、窓を掴む手に悲壮なまでの力が込められているのを玉葉は見逃さず、ただそれを指摘するまえに、ほかの花娼たちが口をはさんだ。
「玉葉、気にしないで。あのこ、王族にしか花は売らないなんて無茶を言うのよ」
「そうよ、零落の身分だかなんだか知らないけど、わがままばっかり」
花娼たちの言葉に、玉葉はふうと重い息をはく。夜の悩ましささえ思わせるそのため息に込められた、苛立つような思いに聡い花娼たちは気づいて押し黙った。
花娼たちが見つめるなか、玉葉が再び蜜蟲に声をかける。
「見たこともない王族よりも、花売りの俺に花を売ったほうがいいと思うがな」
冗談めかして言いながら、玉葉の視線は美しく華奢な少女にのみ注がれる。
「花売りのあなたに、どうして私が抱かれなければならないの」
婀娜めくにはまだ幼い、ただ矜持のみが浮かぶ小さな顔に、蜜蟲は必死で感情を乗せぬよう、気をつけているようだった。
「蜜蟲……、俺に抱かれる気は……ほんとうにないのか」
高楼の軒に飛び移り、その長身を屈めると、玉葉はそっと蜜蟲の手をとった。
蜜蟲の手が震えていることに、触れずとも気づいていた玉葉は、長いあいだ捜し求めていたものを手に入れたように大切に包み込む。
「忘れたふりをしていなければ、気が狂いそうだった。やっと見つけたんだ。たとえ、自分勝手だと罵られても、俺はおまえを連れて行く」
囁く声は甘く、けれど口調はけっして逆らうことを許さぬ厳しいもので、その、ただの花売りではありえない風格に蜜蟲の舌が絡まる。
「あなたは、でも、だって……」
「どうして昨夜は俺を拒んだ。王族にしか花を売らないんだろう?」
睨み上げられ、ひくりと喉を震わせた蜜蟲が瞳を涙で滲ませ玉葉の手をはじく。そして髪に差していた紫丁香花の枝を引き抜くと、玉葉の目の前でその花を摘み取り投げつけた。
「私は、あなたなんか好きにならない。あなたなんか好きにならない。あなたなんか好きにならない……!」
花房を投げつけられながら、それに抵抗を見せず甘んじて受けていた玉葉が、つと花のひとつを掴み取る。
「ん……っ!」
玉葉は手にした花びらを伸ばした腕で蜜蟲の唇に押し込み、蜜蟲のつれない言葉を止めさせて微笑んだ。
「花びらが五つの紫丁香花を食べると、愛する人が永遠に心変わりしないんだ」
「そんなの、知ってるわ。花の名前も、花占いのことも、あなたに教えたのは私だもの」
堪えられないというように、頬に涙を溢れ返させた蜜蟲の肩を玉葉が抱きしめる。
「迎えにくるのがおそくなってすまない」
「どうして私の国を……あんなふうに攻めたりしたの」
緊張する肩を撫で、玉葉はようやく取り戻した少女の身体を壊れ物のように触れた。
「約束を違えて、おまえを他の国に嫁がせようとしたからだ。おまえをだれにも奪われないためなら、俺はいくらでも冷酷になるだろう。思ったより五大国を平定するのに時間がかかったが、それよりもおまえの心を奪うほうが俺にはむずかしい」
どうしたらいい、と聞いてくるかつての婚約者である玉葉の胸に、蜜蟲は昨夜から泣き続けて腫らした眼を隠すように顔を埋める。
五大国が滅ぼされ、王族といえばこの男に連なるものしかいない時世で、王族にしか抱かれないと客を突っ撥ねてきていた自分の気持ちをいったいなんだと思っているのかと、問いただそうかと思いながら蜜蟲は身体の力を抜いた。
「あなたが王でも花売りでも関係ないの。私のことを好きでいてくれるなら、私はいつだって、あなたに手折られる花でいるわ」
花は愛でられてこそ花。手折られてなお美しく咲いてこそ花。
幼いころに交わした会話、約束、決して忘れることのないそれらを再び蜜蟲に囁かれ、玉葉は恋しいひとを腕にさらい川面の舟へと飛び降りた。
ふたり分の重みを受けた舟は一瞬沈みかけ、すぐにまた静かに川面を流れる。
あとに残されたのは散らばる花々と蝶、そして祝福の喝采だけだった。
それも次第に静かに落ち、夜になり立ち込める靄のなかで妓楼の名を宿す雪洞が牡丹のごとく朱に燃え燈る。
華やかに。