スリーポイント(投稿者J氏)
もうだめだ。そう思った。
私は、体育館の壁伝いにずるずると腰を落とすと、首にぶら下げられている小瓶を掌の中で転がした。
「阿部ちゃん、阿部ちゃん、大丈夫?」琴音が走り寄ってくる。黄色のギプス、背番号は…正面から見てるんだから見えるわけないわな。
「うるさいなぁ」上目に、走り寄ってきた琴音を見上げると、岸田が投げ出された私の足に蹴躓いた。そして、「ごめんね」と小さく笑うと器具庫へと走り去っていった。
「死んだ方が良いわ」私は目を細めて岸田の後ろ姿を睨んだ。琴音は私の言葉が聞こえなかったかのように、
「阿部ちゃん、私、絶対勝ってくるからね」と、ガッツポーズを取った。私は無言のまま琴音を凝視した。琴音は、笑っている。
「阿部ちゃんも、応援してよね!」そのまま回れ右して、私に背を向ける。
琴音は、いくら私が皮肉を言っても、怒らない。琴音は知っているから、私のこと。でも多分、本当は知らない。
体育館の高い高い天井を見上げた。眩しい。蛍光灯の眩しさだ。人間は、光がないと生きていけないのか? と、不意にそう思える程に。私も、この錠剤がないと生きていけないのだろうか?
私は首から下げた小瓶の蓋を開けると、真っ白な錠剤を一つ取り出した。ヒルナミン。この間新しく処方された薬。効果は、不安や緊張、興奮などの精神的症状の改善。
二ヶ月くらい前から精神科へ通っている。心理テストも受けたし、障害検査までされた。けれど、三山金をぼったくられておいて「まぁこの時期は色々と大変だからね」という一言で締められた。今は二週間に一度通院して、色々な薬を試す。結局、私は薬に頼ることしか出来ないらしい。遠くでホイッスルが鳴った。とにかく、遠い。
私は小学生の頃、バスケ部に入っていた。別段上手くはなかったけれど、親には他のスポーツの方が得意だろうと言われてたけれど、それでも私はバスケが大好きだった。運動神経のそこそこ良い私にとって、まだ熟知しきれていないバスケの世界を堪能したかったという思いもあったのかもしれない。しかし、入部して僅か三ヶ月で私は部を止めざるを得なくなってしまった。下校時に、携帯電話でメールを打ちながら運転していた琴音の姉の車に轢かれた。私は左目の視力を失った。右足首も骨折した。バスケどころか大好きな運動などなにひとつ出来なくなってしまった。
そして二週間の入院の後、私は松葉杖で体を支えながら渡したくもない退部届を指先に掛け職員室の戸を叩いた。
「水島先生、いらっしゃいますか?」
水島は、はじめから、今日私が退部届を渡しに来ることが分かっていたかのように、寧ろそれを望んでいたかのように、私の手から退部届を受け取った。そして、よく通る低い声で、嘲るかのように、口を開いた。
「まぁ、可哀想としか言いようがないな。柏崎の姉ちゃんだったんだってなぁ」私は黙って頷いた。
「でもま、良かったんじゃないか? 確かに不運だったとは思うよ。けどバスケをやめる良い機会になったじゃない」
私は呼吸することさえも忘れて水島を見上げた。
「いや、この三ヶ月間阿部のことを見てきたけどさ、バスケには向いていないね。向き不向きもあると思うけど、正直、見込みないから」私の記憶は、それで途切れた。ただ、怒りという沼に、埋もれていった。
バスケの才能がないと言われたことよりも何よりも、った三ヶ月で、私を判断したことが、許せなかった。
中学生になって、漸く足も完治して、左目は一生見えないままだけど、私は屈しなかった。バスケットに関しては尚のこと。水島にはああ言われていたけれど、私は決してバスケットが出来ないわけではなかった。水島の言葉が嘘のように、私はバスケットで輝いていた。阿部がいてこそのチームだと言われた。常にリーダーであった。私のチームが負けたことはなかった。だから逆に自惚れていたのかもしれなかった。
「田口、最上、瀬野、滝原…」次々と上げられるクラスメイトの名前。四組と合同だから、あまり知らない生徒もいる。名前の挙げられた生徒は、言わずもがな、バスケットの上手い生徒。誰しもが納得する、メンツ。六人が選出されて、その六人をリーダー格として、他のチームが形成される。そこに、私の姿はなかった。阿部のチームは最強だと、何故阿部はバスケット部ではないのかと、阿部さえいれば勝ちは確実だと、そう謳われていた私が、だ。
先生、何でですか? 私の背が低いからですか? 試合の折りに、後遺症の症状が出るからですか? 私が…左目が見えないからですか? 違うよ。と、心の中でもうひとりの私が呟く。嫌だ、聞きたくない。
違うよ。違くなんて…ない。嘘。嘘じゃないよ。現実が見えないの? ……。
「選ばれたのってさ、やっぱ上手い人だよね。良いなー。凄いなー。ね、阿部ちゃんはどう思う?」
「別に、全員が全員、上手い訳じゃないと思う」
「そうかなぁ…。あー、わかった!阿部ちゃん自分の名前がないから僻んでるんだなぁ?」琴音が戯けて片眼を瞑る。
そうだ。分かっている。分かっているのだ。中学時代はがむしゃらに走っていればそれで良かった。けれども高校生は違う。バスケ部に入っている生徒に敵うはずがない。水島の言葉に意地をはって帰宅部でいる私が敵うはずがない。阿部のチームは最強だと、何故阿部はバスケ部ではないのかと、阿部さえ居れば勝ちは確実だと、そう謳われていた私は、もういない。
私の体は重くて、見えない左瞼の裏に水島の歪んだ口元が浮かび上がって、私のシュートは的はずれな方向へと飛んだ。いや、シュートを放つ前から、はずれることは分かっていた。フォームがおかしかった。
チームメイトが、諦めの体制をとっていた。ゴールに入らずに落ちてくるボールを待ちかまえていた。
担任が手に持ったバインダーの上に鉛筆を走らせた。大きく、横線。私の何かが消された。
「阿部ちゃんがフリーだよ!」コートの外から、琴音の助言が飛ぶ。私の周りに敵はいない。今私にパスを回せば、このままドリブルシュートが出来る。ボールを抱えた岸田は一瞬ちらりを私を伺って、そのまま敵の渦に飲み込まれていった。私にパスを渡せば確実だったはずだ。いや、違う。パスを回されても、私はきっとシュート出来なかっただろう。寧ろドリブルさえも出来なかったのかもしれない。パスが回して貰えないのは、信頼がないから。高校では、がむしゃらが通用しないから。私は、お荷物だから。
その後漸くパスが回ってきて、それでも私の精神状態はめちゃくちゃで、スリーポイントシュートは、高く上がって、上がって、私の足下へ帰ってきた。沈黙。
何故私が精神的に不安定になってしまったのかはわからない。けれども、何故私がコートという居場所を失ってしまったのかはわかる。「正直見込みないから」という水島の言葉が、真実。水島の言っていたことは、正しかったというのか? 先程の沈プレーが、脳内を駆け巡る。足下から崩れていってしまいそうだ。消えていってしまいそうだ。
「阿部ちゃん、負けちった」琴音はわざと明るく振る舞う。琴音は私が精神科へ通っていることを知っている。だから私に優しく接してくれる。けれどそれは、小学生のときに自分の姉が私を轢いたことを徐に詫びているだけかもしれなかった。だから私が精神不安定になってしまったのも姉のせいだと思っていて、私の精神状態が不安定になっても怒らずに、逃げずに、受け止めてくれるのかもしれない。でも、今私のよりどころは琴音しかないから、琴音を信じたい。琴音は私のことを分かってくれていると信じたい。だからさっき僻んでいるといったのも、私を傷付けたのではなく、現実を見て欲しいと思ったのかもしれないとそう信じたい。琴音は、一番私に近い。近いからこそ、わからない。でも、それが一番良いのかもしれない。
「琴音。ごめんね、有り難う」薬が漸く効いてきたらしい。もう口内に苦みは残っていない。琴音は小さく笑うと、
「阿部ちゃん、今後、ボーリングでも一緒に行こうよ」と笑った。ボーリングは、私が今一番得意なスポーツだ。
ふいに、スリーポイントのラインに、幼き日の私が見えた。体のわりに大きなボールを掌に吸い付かせ、跳躍。スパン。喝采。万歳。自然と笑いが込み上げてきた。それは嘲笑だとか、そんないやらしいものではない。なんていうか…説明するのが難しいんだけど。
才能がない? うん、そうかもね。私にはバスケットの才能がないのかもしれない。しかもたった三ヶ月で見破られる程明白だったのかもしれない。
けれどあのころコートの中で輝いていた私は永遠だから。嘘でもない、それは真実、現実だから。
「私、もうバスケは充分かな」ふいに呟くと、
「そうだね。もう阿部ちゃんの身体はバスケじゃ物足りないんだよ」と、琴音が笑った。今の私の冗談は、多分通じている。ホイッスルが鳴る。多分この時間、最後の試合だ。私は先程床に叩き付けたギプスを畳む。
私が落ち着いた答えを出せたのは、薬のお陰だったかもしれないけれど、解決出来たのならばそれで良い。薬が切れたら、私もまたぶつりと切れちゃうかもしれないけど、また薬を飲めば、また解決出来るからそれで良い。その内多分、薬なしでも解決出来るようになる。ようは繰り返しだね。スパン。