黒の姫(投稿者M氏)



 春先まだ遠く、厳しい寒さが続く季節。
 広大な土地と豊かな資源を持つ大国でもっとも愛された姫は、自室の窓からじっと興奮に沸き立つ民を見ていた。


「落ち込む気持ちは分かりますが、姫」
「……何でしょうか」
「何でしょうかは私の台詞です、何ですかそのドレスは」

 暖炉の火が爆ぜる音が聞こえる城内の一室で窓の外を眺めている姫に一人の騎士が声をかける。
 簡素だが丈夫そうな鎧を揺らしながら騎士が視線を向ける先には、腰まで伸びた黒髪に横顔を隠した姫が見えた。
 窓の外から視線を外さない姫は背中を向けたまま言葉を返す。
 おっとりとした世間知らずそうな声はしかし、どことなく意地を張っているような感が強く感じられる。プライドと呼ぶにはあまりに幼い、駄々をこねだしそうな……そんな声。
 そんな声を出しながら姫はゆったりとした動きで騎士へと振り返り、毅然とした視線を向ける。もちろんそれが無理矢理作り出されたものであるということは騎士には百も承知であったのだが、それに突っ込むことは許されない。それは幼い頃から傍で仕えていた騎士には痛いほどに分かっていたからだ。
 姫は多くの民に羨望の眼差しを向けられる黒髪をそっと耳にかけながら、視線同様毅然とした声を上げた。
 だが視線とは違いそこには無理をした感がない、断固とした意思をちらつかせる声だった。
「これは、わたくしの喪服です」
「……なぜそのような」
「理由は貴方が一番よくご存知のはずです。騎士よ」
 はっと息を呑むほどに強い声を聞き騎士は若干顔を強張らせたが、姫はそれについて言及しようとはしなかった。むしろ自分の声がそこまでの力を発揮したことに、微かな優越感を感じているようでもある。
 何年もずっと名前で呼ばれ続けていた騎士は、もう名前で呼ばれることすらされていないことに一抹の寂しさを感じながらも姫のドレスに視線を落とした。もちろんそんな失礼な行為が許されるのは相手がこの騎士だからだ。名前で呼ぶことをやめてもそこまでの制限をかける気は姫にもなかったらしい。
 姫が喪服と称したそのドレスは、確かに喪服そのものであった……豪奢なレースなどがついていなければ十分葬式に出られるほどであっただろう。
 あまり日に当たることのなかった姫の白い肌と黒髪がよく映えるようにデザインされたそのドレスは、姫のこれからの身の振り方を考えると着るべきものではない服であった。
 これから先用意されている大きな式のことは、騎士とて何度も何度も聞かされている。そしてだからこそこの姫が喪服などと称して真っ黒なドレスを身に纏っていることも理解できた。
 だがそれを理解してやる素振りを見せるわけにはいかない。他の誰かがそうしたとしても、この騎士にだけは許されなかった。
 爆ぜていく火の暖かな音を聞きながら騎士は直立不動の体勢で口を真一文字に引き結び、それから数瞬後に口を開く。
「私には分かりかねます……これから嫁がれる幸福な姫がそのようなドレスを纏う理由など」
 甘えなど許されないという断固とした声。それは姫の意固地の声にひどく似通っていた。
 姫の黒い双眸が騎士をじっと見つめるが、騎士はそちらに視線を向けようとはしない。
 動物は本来視線を逸らしたら喧嘩に負けると言われているが、この場合は視線を合わせたら負けなのだ。
 もちろんそんなことを二人が理解しているわけもないのだが、二人はほぼ意地だけで視線を向けそして逸らしていた。

 どれもこれも値の張る調度品に囲まれながらそれでも臣下に質素だと称される部屋の中に立ち、騎士と姫はドアの外から漏れてくる召使いや騎士達の忙しない声を聞く。
 その声のすべてが、今この部屋にいる姫の婚儀のために出されていた。
 忙しないその声を若干疎ましいと思いながらも、姫は決してそれを顔に出すことなくやがて諦めたように視線を離し。
「幸福なはずがありません。同盟関係を保つための婚儀にどんな幸福を見出せと言うのですか」
「……国のために御身を犠牲にされる幸福を」
「確かにお父様やお母様、そして国の役に立てるのなら一国の姫として本望です。しかし一人の女として幸福であるはずがありません」
 王や后に花のようだと称される可憐な顔に暗い影を落としながら、視線を合わせもしない騎士にそう声をかける。
 中堅国との強いパイプを築き、周辺国からの反乱を防ぐ。
 それはどこの国にもありがちな政略結婚の理由であるが、そのありがちな話の当事者達はとてもそれをありがちだとは受け止めきれない。
 多くの民や臣下に愛され、また自らも誰かを愛して生きていけと常より言われていたこの姫はなおさらだったのだろう。
 過去に数度顔を合わせただけのほぼ見知らぬ人間との婚儀を、愛してもいない人間との婚儀を数日後には控えているのだから。
 ドアの向こうから聞こえる喧騒と、窓の外から聞こえてくる歓喜の声に姫は苦しげに目を閉じる。
 そして触れることさえもはばかれるほどの白い手で闇色のドレスを軽く握りしめ、気丈によく通る声を出した。
「これから一人死に逝くわたくしが喪服を着ていてもおかしくはないでしょう? 」
「貴女は死になど――」
「いいえ。この命はあれど、わたくしの心は婚儀の日に死ぬのです」
 騎士の言葉をきっぱりと否定した姫は、勢いで視線を向けた騎士と目を合わせる。真っ直ぐな姫の視線に射抜かれて、騎士は身動ぎでもしたい衝動に駆られた。
 気丈でありながらしかし、今すぐにでも涙を浮かべてしまいそうな脆さも持った瞳に優しい言葉の一つでもかけてやりたくなった騎士は。
 その気持ちを拭い去るように姿勢を正し窓へと視線を向けた。視線を逸らされた姫もまた、窓の外へと目を向ける。
 すると、幼い頃より多くの者達に愛された姫の婚儀を心から祝う民の姿が見えた。彼らは姫が愛する者の元へ嫁ぐと聞かされているのであろうなと姫はぼんやりと考える。
 そしてそれを疑う余地などないのだろうということも。大国でありながらこの国の王が民に虚偽を聞かせたことなど一度たりともなかったのだから。
 姫はそれは嘘なのですと声を大にして言いたかったであろうが、そんなことをしたら王と民の間に亀裂が生じることが目に見えていたのでしなかった。
 城の内外から響く喧騒を耳にしながら、やがて騎士が口を開いた。
 それは先ほどと同じく非情なまでに冷たい言葉。
「貴女の心が死ぬとしても、もう婚儀は取り消せない」
「……分かっています。だからこその喪服なのです」
 ぱちぱちと音を立てて爆ぜていく火が生み出す熱に若干頬を赤く染めながら、姫は軽く首を振って答えた。
 そのままふわりと一回りする。闇色のドレスは火の赤に照らされて不思議な色を騎士に見せていた。
 ドアの向こうから、遠く小さく姫の名を呼ぶ声がする。おそらく婚儀の最終的な打ち合わせに来たのだろう。
「姫、そろそろ」
「知っていましたか?」
 聞こえてきた声に騎士が声を上げると、それを制するように姫が言う。
 その声は先ほど出していたような気丈な声ではなく……姫が元来持っている優しげで脆い響きを持っていた。
 成長してからはいつも気を張っていた姫が出すその声に、騎士は幼い頃に帰ったような感覚を感じる。
 だがそれも一瞬のことで、姫はすぐにまた真っ直ぐ通る声を出しからかうように微笑んだ。
「愛する人の前で別の方との婚儀の話をすることが、どれだけ苦痛なことであるのか」
「!? 」
「貴方は何も言わなくていいし、気付かなくていいのです。元より気付かせないつもりでしたから。でも、結局痛みに耐えきれなかった」
 小さく口の端を吊り上げた姫に何か言おうとするものの、それを制されて騎士は結局開いた口を閉じる。
 それが滑稽だったのか姫はくすくすと笑いながらからかうように続けてそう言った。
 そうして姫は騎士に近づき、その驚いた顔にそっと触れながらもう一度笑い。
「何も知らせないまま嫁ぐのは何だか癪だったのです。最後の我侭を、許してください」
 聞く人によっては慈悲深いと、そして聞く人によっては苦しげだと評されそうな声でそう囁いた。
 火が爆ぜる音と同時に姫は騎士から身を離し、もう一度呼ばれた自分の名に声を返す。
 そうして動けないままの騎士を横目に見ながらドアを開けるのを、騎士はただじっと見ていた。
 ただ、じっと見て。
 姫のからかうような微笑と痛みをこらえたような声と自らが放った残酷な言葉を思い出し、そこに後悔の念を覚え。
 許してください、そう言われた瞬間一番大事な感情に今更ながらに気付いた騎士は。
 姫が喪服と呼んだ闇色のドレスが部屋の外へと消えていくのを見て、一筋の涙を流した。