東京は死にました(投稿者S氏)
もう終わったよ。
黒い雲はそう告げているかのようである。暗雲から、冷たい雨が大地を打っている。空は見えない。
一人の男は小高い丘に立ち尽くす。
少し視線を下げてみよう。すると、どうだ―、目の前にあった摩天楼がただの瓦礫の山と化している。あれがなんであったか、繁栄を誇っていたあの東京の街だと誰が信じられよう。
いや、確かに東京だった。昼も夜も行きかう人影は絶えず、そして無尽蔵なる光に包まれていた。
男はポケットから煙草を取り出した。
トントンと叩き、一本を取り出す。箱は空になる。火がともった。辺りは暗い、煙草にともる火すらまばゆい。
火の先にある廃墟を男は眺め続けた。壊れた街からは何も感じられない―。
この都市を、数千万人の人間を、原子反応が破壊した。核と呼ばれる熱兵器が東京を襲ったのは、数時間前のこと。それまでは幾多とも数え切れぬ命で満ちていた場所だった。
そこに、死が襲いかかった。
それでも少し前までは生き延びていた人々で溢れ返っていたであろう。地上をうずめく熱と悲鳴の混乱から逃げるように、安息の場所を求めてだ。しかしそんな場所はなかった。どこにも人の体を引き裂く蛇の熱流があった。ひとたび蛇が通ると、人々は肉を焼き尽くされ、露出した体は炎の触媒となった。
思い出すだけでも、体の芯まで苦痛に包まれる。あの悲鳴といったらば。
「だが……」
男はため息をついた。
歩を進める。丘の上から降りる―、男は死骸となった東京に足を踏み入れた。あちこちに転がっている人の念を男は感じる。
熱い、苦しい、死んじゃう。
しかしその中、一際大きい声が感じられ、男は目を見開いた。口からポロリとタバコが落ちた。煙草の火は、水溜りに落ちて静かに消えた。
彼の耳に届いたのは子供の声であった。頭に響いてくるが、余韻のない芯の通った高い声。
また、死んじゃった―。
子供だった。
男は目の前に浮かび上がった白い光に目を奪われる。彼はしばらく動けなかった。粗末な布をまとうだけの色白の少年がそこに現れた。
「君は……」
「僕? 僕はトウキョウだよ」
「トウキョウ?」
「僕は生きているんだよ、あ、いや。生きていた、かな。あははは」
悲しそうな笑いだった。
「人気者はつらいなぁ」
トウキョウは気まずそうな笑みを浮かべた。
男はハットを頭にかぶったまま、丘に座した。彼のまとう外套が風で揺れた。どこか生ぬるい風だ。
横に少年も座る。
二人は丘の上に並んだ。
「せっかく生まれ変わったのになぁ……また死んじゃったよ」
「随分と昔のことだな。トウキョウ君」
「五十年くらい前だったかな。一回、前のトウキョウは死んだんだよね。その時の僕はもう老人だった。でも強かったよ? 多くの英知と、賢さを備えていた。だけど、どこかに傲慢が潜んでいた。だから死んじゃったんだよ」
少年は唇を尖らせて言った。子供が愚痴る様そのものだ。
「だが君は生まれ変わった」
男は言う。トウキョウは頷いた。
「うん。東京の人たちは強かったよ。生きたがっていたから」
「だけど、見たところ君は成長していないね」
男が言う。五十年もたったというのに、トウキョウの姿はまだ子供だ。
「だって……」
少年は膝を抱え込んだ。頭をそこに垂れる。
不意に草の上に水滴が落ちた。雨ではない。
彼は涙していた。
「今の人たちは違うんだもん。今の人たちは明かりに騙されてるんだもん」
「明かり、電気のことか」
「夜もともる光、常に生きている感覚。それに騙されて、自分達が詠歌を極めたと思っているんだよ? 頂点に上ったってさ。だから僕はこの姿から成長できなかったんだ。ずっと子供のままだよ」
トウキョウは一息おいた。
「だから、また殺されちゃったんだ、僕。べるりんもろーまも、ぺきんもみんな大きくなったのに、ボクだけ子供のままなんだよ」
トウキョウは鼻をすする。
男は、そんな彼の背中をさすった。トウキョウは嗚咽しながら言う。
「だから殺されちゃうんだ、僕だけ子供だから」
「トウキョウ君」
「え?」
まだ涙を止めないトウキョウを尻目に、男は立ち上がった。
「じゃあ、今度はもっと強い人間を探そうじゃないか」
「え?」
「君はまた生まれ変わるんじゃないのか?」
「うん……そうだけど。誰か生きている人がいれば、生き返れるかも」
トウキョウは頷いた。
男は言う。
「なら、私がそれに力を貸そう」
男が手を差し出す。
それを見て、トウキョウは両目をこすった。男は勇気付ける。
「自分で考えて、そして自分で動ける強い人間を選ぶんだ。決して流されることのない、断固たる流れを創造できるもの。それを新しく生まれる東京の中心にしようじゃないか」
「う……うん」
トウキョウは頷いた。
彼はもう嫌だった。多くのトウキョウの人間が血を流すことが。人の痛みは彼の胸を刺すし、涙を強いる。
男もそれを分かっているのだろう。
「さぁ、行こう」
そして二人は廃墟の東京を巡った。
多くの意思が二人を誘った。
助けて、生きたい、死にたくない、別れたくない、まだ楽しみたい。
嫌だ―、こんなのは嫌だ―。
その感情は瓦礫の中から手の形をとって、引き抜かれるのを待っている。
トウキョウはそれをおびえた目で見ていた。
だが一つ妙なことがあった。男が、その全てを殺していくのだ。彼は、次々と人の残った思念を抹消していた。
「ねぇ……」
トウキョウが小さな声をはさんだが、男は何も言わず、手を殺していく。
「どう思う」
ふいに男がそう言った。
外套が風でひるがえる。ぬるい風だ。
「汚れているとは思わないか、彼らの感情は。ただ自分達の願望を垂れ流すだけで、何もしようとしていない。どうしてこうなったかも考えないで、ただ欲しいものを望んでいる」
「う……そうかな」
「そうだ」
男は続けている。
処刑人のように表情を変えずに。彼が腕を一回払うと、瓦礫の間からのぞいている思念の手が、光の粒になって消えていく。
「何でもあった街だった、東京はな。光、金、快楽、全てがな」
トウキョウは沈んだ表情で頷く。
「うん……、そうだと思う。望んで歌にしたり、言葉にしたり。だけど、実際にそうしようなんて人、少なかったかもしれない」
「豊かさが彼らを盲目にした」
男が言うと、トウキョウはため息をついた。
「そうだよね。そうなんだよね」
「やはり……だめだ」
男がそう言って、ふいに足を止めた。
「そう、だめだ」
トウキョウを振り向いて、男は叫んだ。
「だめだ!」
少年は、驚いて男を見上げた。
男が態度を急変させ、感情を吐露させている。彼は、怒っている?
「腐っている。なんだ、このざまは!」
「な、なに?」
トウキョウは恐る恐る聞いた。
すると、男はトウキョウの首を持ち上げた。
「え……、ぐふ」
男はそのまま絞めあげる。彼は危機迫る表情で、トウキョウを見上げた。紳士帽が落ち、その下の金髪、そして彫りの深い顔が露になった。
「やっぱり死ぬべきだ」
「なに、なんなの?」
トウキョウは苦悶の表情を浮かべた。
「やはりお前もニホンだな、トウキョウ君。君達が馬鹿で愚かだから我々は大いに助かったさ」
「え……」
その瞬間、男の手がトウキョウのか細い腹を突き破った。
赤い血が瓦礫の上に飛び散った。
「な、なに……?」
「お前も所詮はトウキョウの子だな、考えろ」
「ええ?」
トウキョウは驚いた顔のまま、男を見下ろしている。
「自分で考えろ、そして俺が誰であったのか、考えろ」
「え……、まさか、君は」
トウキョウは遠のく意識の中、目を見開いた。
「そうだ。最後まで馬鹿だったな、君は。五十年前も同じだった。だから……、もうこのまま息絶えるがいい、永遠に」
「君は……」
ゆっくりとトウキョウの瞼が閉じられた。
そして、小声だった。
「わしんとん……」
わしんとんは去った。
もう終わったよ、そう告げるように空は黒かった。
そして、東京は死にました。