クロノ・ストッパー(投稿者C氏)
とある朝、目覚めると私は、時を止める少女になっていた。
「何で、私が……」
悪い物を食べた記憶は無い。妙な爺さん婆さんに魔力を授けられた記憶も無い。夢枕に悪魔が現れて、残りの寿命を引き換えにとか言われた記憶も無い。その部分を抹消された可能性もあるのかも知れないけど、これだけ理不尽なことだ。前後に兆候くらいあっても良いのに、それも無い。本格的に、何の心当たりも無い状態だった。
「ま、別に良いか」
深く考えるのはやめにした。トップレーサーだって、一晩寝て起きたらタイムが飛躍的に縮まることがあるらしいし、これはきっとその類だ。私の中の超科学的才能が、何だか複雑な過程を経て発現した。そう考えることに不都合は無いし、現状を甘受することにしよう。この時ばかりは、合理主義者で無い自分に感謝した。そのお陰で理数系の成績はボロボロだけど。
「そんなことより――」
問題は、この能力の実用性だ。何の制限も無いのであれば幾らでも使い道を思い付くのだけれど、世の中、そんなに甘くはない。時間に換算すると、五秒くらいだろうか。もちろんストップウォッチなんかが使える訳じゃないから感覚で割り出したんだけど、そんなものだと思う。但し、連続しては使えない。一度使ってしまうと、一時間ほどの間隔を空けないといけないみたいだ。そして、ここからが重要なんだけど、私自身も動くことが出来ない。意識だけが覚醒して、指先さえ動かすことの出来ない金縛りの様なものだ。死の淵に立ったとか、極限まで集中力を高めたアスリート辺りが、全てをスローモーションに見るなんてことがあるらしいけど、それをある程度扱える能力が覚醒したのかも知れない。
「む〜……」
考えれば考えるほど、どうしたものかが分からない。私が碁打ちか将棋指しなら便利かとも思ったけど、一時間に五秒じゃ、それ程の差があるとも思えない。同じ理由で、テストも却下。五秒くらい考えたところで、頭の中に無い単語は出てこないし、手が動かないんじゃ計算も出来ない。スポーツ関連にしてもそうだ。それだけの猶予が与えられるにしても、結局、最後に物を言うのは、鍛えた反射神経や筋力な訳で。
「賭博関連なら何とか――」
動体視力として最大限に利用して、サイコロのギャンブルやルーレットなら――健全な女子学生の考えることじゃない気がする。
「そっか。ジャンケン」
あれならタイミングを掴めば、相手が出す直前の指の形で何を出そうとしているかが大体は読める。そう思ったのだけど、実践してみると、チョキから形を変える人も居れば、出す直前に気分で変える人も居る。多少、勝率は上がったけど、劇的な変化がある訳でもない。三本勝負にされると、その効果は更に薄まるし。
「むしろスローモーションの中で動ける方が良かったな」
授かったのか、捨てられていたのを拾ったのか良く分からない能力だけど、ケチをつけたい気分にもなる。緩やかな時の流れの中で意識だけが先行するのであれば、反応速度の限界で、限りなく精密な行動が出来るということになる。多少の訓練は必要にしても、手品なんかの宴会芸とかに使えそうだ。
「って、無い物ねだりをしてもしょうがないし」
良い感じで、頭の中が混乱してきていた。いっそのこと、こんな能力なんて使わなければ良いのかとも思うけれど、手に入れたものを有効利用しないのは貧乏性の名が廃る。何か。絶対に何かあるはず。工事中のビル建設現場から鉄骨が落下してきた時に、どちらに避ければ良いかを判断する猶予として――多分、死ぬまでに一度あるか無いかの話ね。
「姉貴、最近、何を唸ってんだよ。早く老けるぜ」
「やかましいわね」
弟の悪態を軽く聞き流し、味噌汁を一口啜った。むぅ。好物の味を、じっくり噛み締めるのに良いんじゃないかと思ってみた。だけど、味覚っていうのは、口内の神経器官を通じて、脳に到達して始めて美味しいと感じるものらしい。だから、その微弱な電気信号が動いていない状態だと、どうということも無い。むしろ違和感が先行して、不味いとも言える。あ〜、もう。何でこんな微妙な能力を授かっちゃったのよ!
「こんな設定を思い付いたんだけど、あんたならどう使う?」
こうなったら、三人寄れば文殊の知恵。友人の頭脳を借りるしかない。と言っても、ありのままを受け入れて貰うのは覚悟が要るから、小説を書く知り合いに、空想の話として聞いて貰うことにした。
「ん〜。それは実に使えない能力だね」
はっきり言って、私もそう思う。
「静止した時の中を自在に動ける話だったら、古今東西、色々とあるよ。調子に乗って私利私欲に走って、最後は天罰を食らうもの。好き勝手に生きるんだけど、そんな自分に嫌気がさして自刃してしまうもの。或いは、生涯、使わないと誓ったけど、愛する者を救う為に使って命を落とす話とかね。だけど、自身が動けないとなると……はて。一体、どう使ったものか」
一応、言っておくけど、私は死ぬつもりなんて無いからね。
「そこを何とか考えるのが、小説家って生き物でしょ」
「若干の誤解がある様だけど――まあ、今度会うまでに、皆にも聞いてみるよ。だけどあまり期待しないでくれよ。物書きってのは、面白くなるであろう設定を広げるのが主眼で、何が何でも使うっていうほど悪食じゃないからね」
ここも、ダメか。こうなったら、手当たり次第に聞いてみようかとも思うけど、変人と思われるのがオチだろうからやめておいた。
「はぁ……」
結局、碌な使い道を思い付かないまま、脱力して教室の机で伏せってしまった。最近の楽しみは、気になるアイツの横顔をこっそり覗き込んでフリーズすることだったりする。一瞬、目線を動かしただけで、実はじっと凝視しているとは、お釈迦様でも思うめぇ――って、絶対に使い方間違ってるしっ!
「あ……」
雨の日の午後、焦って駆け出して転んだ時、反射的に力を使った。知らなかった。雨の落ちてくる様が、こんなにも綺麗だったなんて。普段だったら頬を打つだけの嫌らしい水滴が、まるで珠玉の宝石であるかの様に輝いて見えた。それはきっと、雲の切れ間から陽が射していたからで、曇天の薄暗い中だったら、そうは思わなかったかも知れない。それでも私は、気付いてしまった。今までは単に、憂鬱で気だるいだけの雨の空が、もう一つの顔を持っていることを。もしこの力を備えなかったら、一生、気付くことは無かったかも知れないんだって。これって実は凄いことだよ。写真家が、最高の技術を駆使して切り取る瞬間瞬間を、私は自分の力だけで見ることが出来る。今はまだ慣れてないからこんなものだけど、いつかきっと、誰も見たことが無い世界を見れるに違いないんだよ。そう思うと、心は躍って、抑えきれない気持ちで、胸の中が一杯になった。
「と言っても、濡れること自体は、やっぱ御免だけどね」
転んだ先に水溜りがあるとは、こりゃまた驚かされたってもんさ。私は、そんな運命の女神に見放された自分に嫌気がさして、大きく溜め息を吐いた。
それから、私の生活は少しだけ変わった。具体的に言うと、ふと立ち止まって、色々なものを眺めることが増えた。蝶が飛び立つ時。猫が獲物に襲い掛かる時。つむじ風が舞う時。水を撒き散らす時。私は、僅かの間、時を止めて、その風景を楽しんだ。外れの瞬間であることは多いけど、それはそれで興味深いこともある。一時間に一回というのは変わらずネックだけど、加減を憶えればそれ程でもない。それより何より、私はこの素晴らしい能力に酔っていた。使えない力なんて言ってごめんなさい。今は物凄く感謝してますから、どうか消えないで下さい。お願いします。
「姉貴、今度はいきなり呆けることが増えたな。誰か好きな奴でも出来たりしたか?」
「ふふん。もしかすると、恋なんかより凄いことかもよ」
「はぁ?」
何かを美しいと感じるのは、人独特の感覚なのか。そんな難しいことは、私には分からない。だけど、他愛の無い日常も、見方を変えるだけで至高の光を放つ。私にとってそれは、紛れも無い真理だった。いつも見ている青い空も、指の隙間から覗けば、また別の世界。そんな単純なことを気付かせてくれた。これってやっぱり、凄いことだよ。
私は、陽の光が一杯に零れる蒼天を仰ぎ見ると、目一杯、息を吸い込んで、その匂いを満喫した。
「うぅん。ほんっとに良い香りだよ」
横では、弟が訝しげにこちらを見遣ってたけど、ま、それは余談ってことで。