1/365の恋人(投稿者D氏)
今、私は電車で一人、揺られている。
車窓の外、流れくる景色に、次第に郷愁が濃くなっていく。
彼は、忘れられる事を望んだ。
私は、忘れない事を望んだ。
これは、そのどちらもが聞き届けられた結果なのだと思う。
私は年に一度、彼の失われた二月十日にだけ、彼との記憶を取り戻すようになった。
そしてその日には必ずこうして帰郷し、決まった場所へと赴く。
よく待ち合わせに使っていた、駅の側にある小さな公園。
足を踏み入れてすぐに、私はそれを捉えた。
白いビオラが薄い花弁を震わせる、花壇。それを背にしたベンチで、ネイビーのダッフルコートを着て、前屈みに腰掛け手を組んだいつもの姿勢で私を待つ、彼――敦の姿を。
敦も私に気づき、微笑む。側まで歩み寄ると、彼は立ち上がった。
「――じゃあ、行こうか」
一年ぶりにしてはあっさりとした、でもごく自然なそれが、変わらずに続いている私達の再会の形。
私は笑顔でうなずいて、敦と自分の腕を絡める。
触れる事はできても、しかし彼から体温が伝わってくる事は、決してなかった。
――私達が『実際に』付き合っていたのは、もう十年以上も前の事になる。
敦は身体に病気を抱えていた。そしてそれが元で命を落としたために、私は彼と、死に別れる事になってしまった。
『彩乃の前からいなくなる時には、僕は彩乃から、僕の記憶を全部さらっていくよ』
いついなくなるかわからないのだという事を諭すように、敦は笑って私にそう告げていた。
そして彼は本当に、私の中にあった彼に関する記憶を、持っていってしまったのだ。
彼の亡くなった翌日には、私は彼の事だけをきれいに忘れていた。彼そのものの記憶も、彼に対し抱いた感情も。
しかし、私はその全てを手放してはいなかった。
そうして一年が過ぎ、再び巡ってきた二月十日の朝――私は、その記憶を一挙に取り戻した。
半ば錯乱したような状態に陥りながら家を飛び出した私が何故か足を向けたのは、思い出の公園。
するとそこに、いたのだ。確かに死んだはずの、敦が。
「……あの時にみんな忘れさせる事ができていたら、また君を、泣かせる事にはならなかったのにな……」
悲しげに笑って、彼は涙で濡れた私の頬を、そっと指で拭った。
――絶対に、忘れたくなどない――。
敦が死んだ時、私が深い悲しみの中でそう強く念じたためだと、彼は言う。そして彼が今、私の中に残してしまった記憶を改めて持ち去るつもりでいるのだという事を、私は悟る。
そのために彼は戻って来て、私はここに、呼び寄せられたのだと。
私は首を横に振り、彼にすがった。
「お願い、この記憶を奪わないで! 私はあなたの事を忘れたくなんてなかった……!」
まる一年、敦の事を忘れたまま安穏と過ごしていた自分が、呪わしくさえ思える。
泣き震えて訴える私に、戸惑ったのだろう。しばらく立ち尽くしていたが、やがて敦は、私の両肩にそっと手をかけた。
顔を上げると、滲んだ私の瞳に彼の微笑みが映る。
「……わかったよ。彩乃がそう望むなら、僕はそれを無理にしようとは思わない」
再び顔をうずめた私を抱いて、敦は穏やかに言った。
「彩乃の僕に関する記憶が戻るのは、一年でこの日限りのものだ。だから彩乃の記憶が戻るこの日だけ、僕は、君に会いに戻って来る事にするよ。……それでも、いいかな」
溢れすぎた思いはもう涙以外のものに換える事ができず、私は彼の胸の中で泣きじゃくりながら、ただ何度もこくこくとうなずいていた。
それから毎年、私は敦の言った通り二月十日になると、記憶を取り戻した。戻って来る彼に会い、その一日を彼と共に過ごす。そしてその日が過ぎると再び彼の何もかもを忘れてしまう、という事を、繰り返していた。
そんな不思議な逢瀬も、今年で十年目になる。
敦と会うといっても、別に特別な何かをするわけではない。まだ高校生だった当時のように、街をゆったりと歩いて、疲れたら適当な店に入りお茶を飲む。純粋に、一緒にいられる時間が何よりの幸福だった。そして最後には待ち合わせの公園に戻ってきて、そこのベンチでとりとめのない話に花を咲かせ、日付が変わって魔法が解けるように私の記憶がなくなってしまう、そのシンデレラタイムの前にと――名残を惜しみながら、別れるのだ。
日がとっぷりと暮れた午後八時。その公園で、私達は側に立つ照明の明かりに照らされたいつものベンチに、腰を並べた。
吐くたび白く凍る息が、暗い空に溶けていく。
少しの沈黙を置いた後、私の方から口を開いた。
「……今日も、楽しかった。毎年ありがとうね」
それに対して敦はほのかに笑みを返したが、しかしすぐにそれを消し、前に向き直った。
「……今年で、あれから十年にもなるんだな」
その、愁いを帯びてどこか思い詰めたようでもある横顔に、不安を感じて胸が小さく鳴る。彼はそのまま、次の話を切り出した。
「彩乃には、今の生活がちゃんとある。いつまでも、こんなふうに俺の事をひきずり続けるわけにはいかないだろう……。だからもう、今日で終わりにしないか」
――覚悟は、しているつもりだった。いつか、そう言われる時が来るであろう事は。
でも彼の口から出たその言葉は、やはり、胸にこたえた。
敦が言うように、彼の事を忘れて過ごす日の私には、今の生活というものがある。別の人と恋愛し、三年前に、結婚した。郷里を離れて守るべき家庭を持った私のためを思い彼は、私から去ろうとしている。
「……今のままでは、いつまでもあなたが、成仏できないものね」
どうにか笑顔で繕おうとするがうまくいかず、言いながら私は、その顔をうつむける。
「わかっていても、気づかないふりしてた……。私のわがままが、あなたをこの世に、縛りつけてるんだって事」
私の中の記憶を持っていく事が、彼のこの世に対する、唯一の未練を拭い去る事でもあるのだと。その未練が、彼をずっと縛りつけているのだと。
それをわかっていながら、私は甘え続けていたのだ。一年のうちたった一日だけ恋人となってくれる、この彼に。本当に、どうしようもないわがままだと思った。
こみ上げてくる涙を抑えようと、唇を噛む。今ここで泣いてしまったら、また彼を縛ってしまう事になる――。
「……違うよ。彩乃が縛りつけているのは、君自身だ」
私は少し驚いて彼の方を向き、それを否定する。
「私は、この日以外にあなたの事は全然覚えていないから……あなたに、縛られては――」
しかし彼は首を横に振り、私の言葉を途中で遮った。
「自覚がないだけで……彩乃は僕との記憶にとらわれているよ。僕に負い目を感じて、踏み切れずにいる事があるだろう?」
言われて、この時初めて――私は自身のそれに気づいた。
彼は真摯な目で私を見つめたまま、膝に置かれた私の手に、冷たくも温かくもない、自分のその手を重ねる。
「僕は、こんなふうだから……もうこれ以上、彩乃にしてやれる事はないんだ。だからこうして会うのもこれで最後にするために、今日は、君の記憶をもらっていくよ」
今ある何かに、不満を抱いているわけではない。ただ私は、『失う』という事が怖かったのだ。敦との離別は、彼が私の内に残る記憶を持っていってしまう事を、意味していたから。
彼と築いた形のないそれは、他の何にも変えられない、私の大切な宝物だから――。
胸が、言いようのない悲しみと痛みに軋む。堪えきれずにこぼれ始めた涙が、ぱたぱたと彼と私の手に落ちた。
そんな私に、敦は初めて再会したあの日のように悲しげに微笑むと、静かにその口を開いた。
「……代わりに、ひとつだけ……聞いてもらいたい事があるんだ」
そして、私の耳元に顔を寄せる。
そっと打ち明けられたその内容に、私は目を見開いた。
「……君は、それを受け入れてくれるかい?」
その問いかけに、私の目に新たな涙がこみ上げる。
私が深くうなずくと、敦は包むように私を抱き寄せた。
「十年前から今まで、僕を心に持ち続けていてくれた事――嬉しかったよ」
そう言って、私と唇を重ね合わせる。
緩やかに、互いの想いが通い合う優しい時間が、過ぎていく――。
やがて唇を離すと、彼は私に告げた。
「……いつものように日付が変わったら、君は僕の事を覚えていない。そしてもう二度と、思い出す事はないから――」
敦の像が、色が、次第に薄れてその場から失われていく。思わず伸ばした私の手は、しかし彼を透けて、空を泳いだ。
――どうか、幸せになって――。
宙にそう言葉を残して、敦は、消えてしまった。
最後触れる事の叶わなかったその手で顔を覆い、私はしばらくの間そこで一人、嗚咽していた。
***
結婚してから、五年目に入った。
多分ごく一般的な、でもささやかな幸せがそこここに転がる家庭。
「それじゃ、行ってくるよ」
「うん、いってらっしゃい」
朝、私は眩い陽の射し込む玄関先で、夫を仕事へと送り出す。
その腕に初めてとなる、生まれて間もない自分の子を抱いて。
長く子どもを持つ事に抵抗を感じていたけれど、それがなぜだったのか――今となっては、自分でもわからなかった。
胸の中で小さな寝息をたてる、私の天使。
その罪のない寝顔に頬を緩め、私は慈しみを込めて、そっと名前を呼んだ。
――敦、と。