わがままトルテ(投稿者E氏)



 サクランボは嫌いじゃない。
 だけど、これって何ていうデザートなの? 僕はお菓子の種類には詳しくない。
「ブラックチェリーサワーパイ*よ」 (*注:アメリカ産のブラックチェリーをタルトの上にしきつめたパイのこと)
「何度聞いても覚えられないってば」
「黒い桜ん坊の甘酸っぱいお菓子」
「……もういいよ。とにかくそれを僕のために作ってくれたわけだ?」
「なによお、もうちょっと嬉しそうにしたらあ?」
「でも、僕はチョコの方が良かったし、先週の予告では『史上最高に美味いザッパトフテを食わせる!』と言っていただろ?」
「ザッハトルテ**よ」 (**注:世界最高とうたわれるオーストリア産のチョコレートケーキ)
「何だっていいさ……結局、ブラックチェリーパイなんだから」
「ブラックチェリーサワーパイ!」
 どっちだって構わない。とにかく僕はチョコレートを食い損ねるのかっ。
 二月十四日に甘い幻想を抱いている?
 もちろん、だ。
 この日ぐらいしか僕たちは女の子に甘えられないんだから。
 予告どおりにチョコくれ、チョコ!
 ちょこれえとお、くれぇええぇィい。
 僕の彼女は、もともと調理は美味くない。チョコレートだってぐちゃぐちゃになることぐらい、僕は判ってる、知ってる、覚えてる。
 ぐちゃぐちゃで汚くたっていいんだよ。チョコでさえあれば、僕はヴァレンタインデイに「彼女からチョコレートを貰った男」として、これから気高く誇り高い一年を送ることが出来る。
 去年のチョコレートは、丸めたチョコレートにパウダーをつけた、お団子チョコレート。彼女の汗と涙と手垢つき。
 その前のチョコレートは、買ってきた板チョコを溶かして固めただけの「星型」チョコ。いや、あれはハートなの?
 その前のチョコレートは、ちょっと高級な「しょこらてぃえ」とかいう店で買ってきたという……あれって何だっけ? ちょっと小難しい名前のチョコレートの芸術品。
 その前のチョコレートは、うさんくさい「地域限定よ」という御当地のチョコ菓子。チョコなのに、何故かミソ風味。名古屋原産?
 その前のチョコレートは、十円で売られていた小さなチョコの包み紙付き。見るからに義理と判るチョコなのに、なぜかリボンが付いていた。
 その前のチョコレートは、彼女が食べていたアルファベットチョコのおすそ分け。文字通り、義理でくれた奴。素手でつかんでそのまま手渡しかよ。
 僕たちにとってチョコレートは、愛の挫折と誤解の歴史そのものなのだ。
「チョコなんて『甘いから嫌いだ』って言ってたくせにー」
「甘くないチョコレートケーキを作ってよ」
「ムっカァーっ。一度ぐらい自分で作ってみたら?」
「ヴァレンタインでどうして男がチョコレートと格闘しなくちゃならんのだ?! そんな男見たことないね」
「ヴァレンタインで彼女を泣かせる男はどうよ?!」
「泣いてない!」
「泣いてやるっ……ふえぇえええー!」
 僕の彼女は有言実行だ。
 とにかく泣き始めたら、お手上げだ。僕は仕方なく、チェリーパイに手をつけようとしたが、彼女は泣きながら、僕の手をはたき、皿を下げてしまった。
 僕が一体何をした?!
 ただ、ひたすらに彼女のチョコレートが欲しいだけだ!
「もう、絶対別れるからっ! 絶対二度とケーキなんか作ってあげない!」
 そんな風に泣き喚いている彼女を見て、僕はちょっと悲しくなった。
 ケーキじゃないってば……チョコレートを作ってよー。
 彼女は僕が甘い菓子を本気で好きだと想っているのかな?
 僕は普段、お菓子なんてもんはこれっぽっちも口の中に入れたいとは思わない。二月十四日でなければ、誰があんな砂糖の味のする代物を口の中になんか入れるもんか。
 彼女がくれたものだから食べてやるんだ。自分の彼女が相手でなかったら、甘くないチョコレートを思いっきり食べたいと言えるわけがない。
 全然判ってない女だな! くそっ!
「ひどいよ、いつも、わがままばっかり!」
 わがままの何が悪いんだよ?
「そんなに私のことが嫌いなら、もっとわがままきいてくれる人のところに行けばいいじゃないっ!」
「バカっ!」
 思わず僕は彼女に怒鳴った。ほんっとーに腹が立つっ!
 わがままを一切言わない、うすら彼氏がいいのか、お前はーっ!
 だが、彼女は急に白けた顔で「バカ、ですって?」とおうむ返しに呟いた……その言葉は彼女の奥底にある心の琴線に触れたようだった。
「てめえっ?! 言うに事欠いて『バカ』とわ何だっ、『バカ』とわっ」
「てめえだとっ?! 女の子が使う言葉じゃ――ウブッ」
 手が出たよ。
 僕の彼女は、手を出すのが早――いや、足も早いけどね。ね、寝技だって、と、得意、だったりするーっ! ひィっでぇええーっ!
 で、僕は喧嘩なんてまるでからっきしのもやしっ子なのだ。
 見る間に優雅な関節技をかけられて、身動き一つ出来ない状態に。息だって止まってるよー。
 僕は彼女に手を上げたこともないし、彼女と喧嘩して勝ったこともない!
 いつだって、彼女は僕に勝ってる! もう君の勝ちです、許してください。腕が折れます……。
「てめえのわがままを逐一聞いて、改良を加えてやってる私の気持ちも知らんと、言うに事欠いて『バカ』だァ?!」
「ウッィっっく、くぇっくえっ」
「てめえ、一体何様のつもりだ、このヤロウ! どこのどいつがテメーのような口先男に手作りチョコを作ると思ってやがるんだ?! はっ?!」
「ど……ど、このどいつが君以上のすッげー美人だろうと優しくて可愛――うげええーっ!」
「ヒッ、ふィっく、死んじまえっ! バカっ! バカヤロウっ!」
「そ、そいつ、が、どんなに、どんなにチョコレート作りが美味かろうと、僕は……甘くないチョコレートしか食わないっ! お前の作るすんげーまずいチョコでいいんだっ!」
「うわああーん! 死ねっ、死ね、死ねっ!」
「うげっ、うごっ、うぐぐ――」
 ねえ。
 これって、僕にとっては最高の愛情表現だったんだけど。
 まずくてもいいんだよ? 何を作ってもいいんだよ?
 なのにどうして怒って泣いてるわけ? まったく、女ってのは判らないよ。
 上手に作ってくれたら褒めてやるし、下手だったら「まずい!」と言ってやる。
 何度だってまずいチョコを食べてやるよ。
 だから、何も心配せずに作ればいいんだ。僕は二月十四日のチョコレートが好きなんだ。
 甘くないチョコレートなんて、手作りでなければ絶対に食べられないでしょ。市販品は全部砂糖の塊だ。
「ひいっく……っく。ぜ、絶対、もう別れるからっ」
 彼女は恨みがましい目で僕を睨む。その目から涙がこぼれた時、すごく胸が痛かった。目の前で泣くなよっ!
 だけど、即座に力いっぱい平手で殴られた。爪付き。
 僕はあえなくノックダウンだ。情けない話だけど、気がついたら彼女は消えていた。
 意識を失っていたみたい。
 気がついてから、起き上がって辺りを見回したら、彼女の作ったチェリーパイは消えていた。
 哀しくなって落ち込んだけど、その二時間後、食事を作るために冷蔵庫を開けたらラップに包まれて黒い菓子が、どでーん、と鎮座していた。
 勿論、食った。
 余すところなく、全部食った。
 ブラックチェリーパイ、いや、サワーとか酸っぱいとかいう名詞が挟まっていたっけか。
 ――ぜんっぜん、酸っぱくねえっつーのっ!
 僕は受話器を取って彼女の家に電話をかけ、早速文句を言った。
「あれの何処がサワーなんだよ。もういいから来年からチョコにしろっ! 甘くないチョコっ!」
 彼女はきっと呆れていただろう。怒っていたかもしれないけれど、僕も本気で怒っていた。
 パイだろうとチョコだろうと何だっていいけど、二人で食べたかったのに勝手に帰りやがってっ!
 電話の向こうで彼女は言った。
「もう別れたって言ったでしょ?!」
「じゃあ、どうしてチェリーパイを置いていったんだ! 僕に食べて欲しいって言うことなんだろ」
「そんなんじゃないからっ、わ、忘れたのっ! 本気でっ――食べたの?」
「当たり前だろ。あれは僕のだ。全部食ったからな、全部! 今更『私も食べたいのに!』なんて言ってももう遅いっ」
「……で、美味しかった?」
「だから、甘いって。どこが酸っぱいんだよ? 甘くて食えないってば……一応全部食ったけど」
「もしかして……甘いのがダメなの? 本当に甘くないチョコが欲しいの?」
 今頃、気づくことじゃないでしょ。何年付き合ってるんだよ、そろそろ判れって!
 彼女の言葉に怒って、抗議したけど、彼女は徐々に機嫌がよくなって「今度は甘くないザッハトルテだから」と言ってくれた。
 ちゃんと作ってよね、来年こそは。