ハニー(投稿者J氏)



 雨上がりの夜道をとぼとぼと歩きながら、ああ、引越ししようかなぁ、なんて思った日。
 朋恵は、五年付き合った彼氏と別れた。


「見合いしたんだわ」
「は?」
 ……ピザとパスタを隔てて向き合い、さあどちらから取り分けようかという時に真顔でそんな話を振られても。
 そんなあさってな話題転換にすばやく気の利いた切り返しが出来るほど朋恵の回転は速くないので、咄嗟に出るのは、は?ぐらいのものである。一体どんなリアクションを求められているのかも分からなかったので、とりあえず思い付いたことから聞いてみた。
「ええと、いつ?」
「先月の頭だったかな……」
 そんなに前かよ。しかも『だったかな』っておい。
 口元まで出かかったツッコミをはたして本当にツッコむべきか否か。一瞬考えたその間に、相手がそれでな、と言葉を続けた。
「結婚することにしたから、俺。悪いけど」
「は?」
 今度こそ本当に、は?、だった。
 目の前の男は、確か朋恵の彼氏のはずだ。確かとかはずだとか普段付かない言葉が付いているのはさすがに今ちょっと混乱しているらしいからだが、その辺の認識に間違いは多分ない。いや、多分って言うか、間違いないから。
 ああつまりこれは別れ話なんだ?とようやくそう思い至って、思わず朋恵は相手の顔をまじまじと見つめた。怒って良いような気がちらっとしたが、気分はむしろすがすがしいくらい単にびっくりだった。
 彼女いるのに見合いして、しかも結婚するから彼女と別れるって、一体。そんなどっかで聞いたようなドラマくさいリアリティのなさはどうなんだろう。いや、もしかしたらこれって案外ありがちなことなのかも。……それより、私捨てられる立場みたいなんですけど。
 怒って良いような気がもう一度したのだが、
「……ああ、うん。分かった」
 自分でも気抜けするほどあっさりと朋恵は頷いて、別れ話は落着した。
 元彼になった瞬間、男はバツが悪いような安心したようなちょっとムッとしたような、やたら複雑な表情を浮かべた。

 その後、何事もなかったようにピザとパスタを取り分けて和やかに食事を済ませると、朋恵は男と別れてとぼとぼと夜道を駅へ向かった。
 どうしてだろう、非常に和やかでしかもこれっぽっちも気を遣わなくて良い相手で、事実これっぽっちも気なんて遣っていなかったというのに、何だか無駄に疲れた気がするのは。やっぱり別れ話の後だからだろうか。
 雨上がりのささやかな星空を見上げて、朋恵はちょっと溜め息をついた。
 就職してしばらくした頃に付き合い始めて、そろそろ五年が経つはずだった。長い方だと思う。さすがに付き合い始めのべたべた甘い盛り上がりなんかはもはやなくて、ひょっとしていわゆる倦怠期というやつなのかもしれないとちょっと思ってはいたが、別に仲が悪くなった訳でもなければ取り立てて疎遠になっている訳でもなく、朋恵としてはこの調子で関係が安定するんだとそんな風に考えていた。正直に言おう、結婚とかそういうことも漠然と意識していた。だってそういうお年頃だし。
「何だかな」
 思わず呟くと、つられるように胸の辺りが何だかもやもやとしてきた。
(見合いしたんだわ)
 ……あ、ちょっとムカついてきた。
(結婚することにしたから、俺。悪いけど)
 ……これって私怒って良いんだよね? て言うか怒る場面だよね? だって私彼女じゃん? 私いるのに見合いするって何それ? しかも結婚て、なんで相手私じゃない訳? ひどくない?
 今更のように文句が湧いてきたが、遅い。別れ話がまとまったその席で和やかな食事を、あまつさえ仲良く料理を分け合ったりなんかまでしてしまった後でそんな怒りなど、いくら何でも今更だった。回転遅すぎる。
 ますますもやもやしてきて、ぶつけようのない怒りの代わりに朋恵はバッグをぶんぶん振り回した。
 あの時だって怒って良いような気がしたのだ。怒れば良かった。いっそ怒鳴ってやるとか。ひどいとか最低とか、言い様はいくらでもあるし、むしろ怒るのは正当に朋恵の権利だ。悔しい、怒り損ねた。
 悔しいついでに引越ししようかなぁなんて考える。別に彼氏の思い出があって嫌だとかそういうことではないけれど。と言うか、就職以来の今の部屋は女性専用マンションで男性は出入り厳禁だから彼氏を入れたことなんてさらさらないのだけど。五年も付き合ったのに結局。連れ込んでる人は結構いるみたいだけど、朋恵はそういうことはしなかった。管理人の隙を窺ってとか、そういうのは面倒だし、そこまでしなくても外で会えばいいやとかそう思っていたので。
 そういう部屋を、彼氏と別れてから出るっていうのも結構おかしな話かもしれない。順番逆だし。でも、そう、彼氏を入れるために引っ越そうとかそういうことは一度も考えなかった。
 ―――結局、そこまで好きじゃなかったんだろうか。
 ふとそう思ってしまって、朋恵はぎくりと足を止めた。
 そんなはずはない。だって五年も付き合ってたのに、結婚とかだって想像したことあるのに。
 そう考えながら一方で、でもさっき怒らなかったじゃない、と自分自身が意地悪く指摘する。あんなこと言われたのに怒らなかった。それって別れても構わなかったからじゃないの?
 足が動かない。立ち尽くしたまま、朋恵は必死に違う違うと繰り返した。そうじゃない、そんなことない。怒らなかったのは、だって―――。
 バシャン。
「すいません!」
 唐突に声が割り込んで、朋恵は夢から醒めたように辺りを見回した。ちょうど朋恵の横を行き過ぎたところだったらしい原付が少し先で止まっていて、乗り手が慌てた様子でこちらに歩いてくる。今の声は彼のようだ。
 脚にびっしょりと冷たい感触があって、朋恵は嫌な気持ちで見下ろした。盛大に跳ねた泥水が両脚どころか膝上のスカートまでを汚している。白いスカートがどろどろだ。もう二度と着られないかもしれない。
「……ひどい」
「すいません、あの」
 俯いたまま呟いた朋恵に、おろおろしながら男が謝る。朋恵が言うのも何だが、見た目の割にお人好しらしい。ちょっと申し訳なく思いつつ、朋恵はさっき思い浮かべた怒りの言葉の数々を反芻した。ひどいとか、最低とか。
「最低」
「すいません」
 謝罪を繰り返す男の声を遠くに聞きながら、なんだ出来るじゃん、と朋恵は思った。さっきだってこんな風に怒ってやれば良かったのに。
「……え、あれ?」
 怒っている、つもりだったのに。じわっと目が潤んで止める間もなく涙が流れ出し、朋恵は呆然とした。
「うわ、ちょっと!」
 男の焦った声を聞き流し、朋恵は唇を噛んで考えた。
 またもや怒り損ねた挙句に泣いてしまうっていうのは、一体どういう了見なんだろう。どう考えたってこれは怒る場面であって、絶対に泣く場面じゃないのに。さっきだって。
 ……ああ、そうか。
 急に色々なことが腑に落ちて、朋恵は噛んでいた唇を緩めた。じわりと痛みが広がる。
 本当は泣きたかったのだ。怒るんじゃなくて。怒って良いとかそういうことではなくて。
 ―――なんだ、ちゃんと好きだったんだ。
 考えてみれば当たり前のような気がする。だって五年も付き合って、結婚だって考えた相手なんだから、普通に考えたらそれは好きだろう。フられて泣けるくらいには。
 ……馬鹿みたいだ。悲しかったんだから、泣けば良かったんだ。
「……あの、大丈夫です、か?」
 理解はしたので気持ちはそれなりにすっきりしたけれど、それはそれとして涙が止まらない。大分うろたえている男には悪いが、この際だからもう少し泣いてみようかと思った。
 それなりに、多分人並みに恋愛はしてきたし、付き合った数相応に別れ話もしたはずなのに、失恋で泣くのは考えてみると初めてかもしれない。何かが決定的に鈍いのか、フられてもいつも泣いたりはしなかった。さっきみたいに。
 駄目じゃん、と思う。本当に馬鹿みたいだ。それにちょっと損をした気もする。ちゃんと泣いておけば良かった。そうすれば。
 頭に何かが載った。それが撫でるように後ろに滑って、それから頭だけ引き寄せられる。至近距離まで近寄っていた男の胸に額が触れた。
「その、ごめん」
 ……どれのことが?
 心の中で咄嗟にそう返して、泣いているのにむしょうに可笑しくなった。これはどうやら慰められているらしい。ためらいがちに頭を撫でる手が優しくて温かくて、気持ち良かった。
 やっぱり損してた、と思う。泣いて慰めてもらうのがこんなに心地良いなら、ちゃんと泣いておけば良かった。慰めてくれる相手がいればの話だが。
 原付男の胸に額を預けてこっそり微笑みながら、朋恵はもうしばらく泣くことにした。



「あ、もうここで良いから」
「いや、この際部屋まで送るから。ってか送った彼氏にコーヒーご馳走とかなし?」
「ウチ女性専用マンションだから。男性立ち入り厳禁」
 げー、と不満そうに呻く新しい彼氏を朋恵は苦笑いで見上げた。これが例の原付男だったりするのはいささか出来すぎだがご愛嬌である。
 もしも今度フられたら、と考える。今度はちゃんと泣こう。泥跳ねにかこつけてとかじゃなくて、ちゃんと。家族でも友達でも誰でも良いから慰めてくれる誰かを捕まえて、思い切り泣いてやろう。
 ……こんなことを考えているとばれたら怒られるかもしれないけれど、覚悟だけは先にしておきたかった。覚悟をした上で、別れないように努力するのだ。朋恵にしたって何も別れたい訳ではないのだから。これは、フられたら泣くくらい相手のことを好きになろうという覚悟だ。
 隣でちょっとご機嫌斜めな横顔を盗み見て、とりあえず引っ越そうかなぁ、なんて考える。送ってもらったお礼にコーヒーをご馳走できる部屋。想像すると何だか楽しい。
 バイバイ、と手を振りながら、明日から部屋を探そうと決めた。