シニカルな彼女(投稿者N氏)
最近、彼が浮気をしている気がするの。
いいえ、「気がする」なんて甘い言葉で誤魔化しては駄目ね。彼のアパートに出入りする女を見かけてしまったんだから。
彼の部屋に合鍵を持って遠慮なく入る彼女を初めて見たときは我が目を疑ったわ。合鍵なんて、私ですら持っていない。何かの間違いだって思って、彼の家の近くで、そっと様子を見ていたけれど――同じ光景を何度も見せ付けられれば、流石に認めざるを得ない。
彼女は彼の家へ、大体週二日のペースで通っていた。彼の妹や姉という可能性も考えて、それとなく彼へ家族構成を尋ねてみたけれど、彼には姉妹はいないという。年の近い親戚の存在も勘ぐったけど、やはり家に通ってくるほど親しい親戚はいなそう。
信じたくなかった。とてもじゃないけれど、浮気をするような人だとは思えなかった。
私は彼を心から愛しているわ。本当は疑いたくない。
彼はとても静かな人。少し線が細くて、頼りなく見えて、彼のどこに引かれたかなんて、良く分からないのだけれど……そう、強いて言うなら直感。彼なら私を理解して、愛してくれると無条件に信じさせてくれた。
私は彼に夢中になり、彼も私を愛してくれた。少なくとも、そう信じられるほどには私たちの間の空気は満ち足りていた。
それなのに――
付き合って一月ほどして、気づいてしまった。
知ったきっかけはとても些細。急に遊びに行って驚かせようと思った日のことだった。
二十歳くらいの、綺麗な人。華奢で、少し大柄の私とは正反対。
彼の家に出入りしている女は、とても可愛らしい雰囲気を持っていた。
私は慌てて隠れ、彼女を影から観察する。
目を際立たせる明るいメイク、綺麗なロングの黒髪、少し痩せすぎているけど、その華奢さが顔の小ささを引き立てている。
遠目から見ても、十分に魅力的な容姿だった。何らかの雑誌のモデルをしていると言われても違和感はない。
綺麗な顔、綺麗な身体。
……私には無いものを持った女性だ。
私には醜い身体的問題があって、その醜さを見せるのが怖くて、彼とまだ触れ合えていなかった。
――私は子供を生むことが出来ないのだ。
ひどいコンプレックス。
自分の身体を鏡で見るたびに、心が軋み、踏み込むのを躊躇してしまう。
彼なら私を受け入れてくれると信じている。信じているけれど、でも、怖い。
もし彼が私の身体を見て、目を逸らしたら。心離れていったら。
彼を想う気持ちに歯止めが利かなくなっていくと同時に、不安も比例して増えていく……
――――そんな折の、浮気だった。
私が悪かったの?
信じていると言いながら、全てをさらけ出す勇気を持てなかった私を敏感に見抜いて、彼が愛想を尽かしたと考えれば、十分以上に納得がいく話ではある。
でも……私だって彼をよく見ているつもり。
彼が私に不満を持っていたのなら、何か態度に表れていたはず。
彼はいつでも自然に私と接していた。私は自分の欠陥に悩み、時折沈むことがあったけれど、そんな時、彼は何も言わずに傍にいてくれた。子供を生めないと白状しても、彼は優しく慰めてくれたのに。
その彼が、そう簡単に態度を翻すだろうか?
あるいは――誰にでも、そんな甘い言葉を言っているの?
私は首を横に振った。想像だけで結論なんて出せないというのに、何を悶々と考え込んでいるのか。
ここに来るまでに、もう既に散々悩んだ。これ以上悩んだって、仕方が無い。
――今日は決着をつけにきたのだから。
確かめなければならない。
私は冬の夜の底冷えにいつも以上に震えながら、一歩踏み出す。
もう止まれない。
今、彼の部屋へ。
控えめに呼び鈴を鳴らすと、約束無しに現れた私に吃驚しながら、彼はすぐ現れた。
玄関に女の気配は無い。今は彼一人。
寒さに震える私を、部屋へと誘う彼。
暫く無言が続く。
暖かいお茶を淹れてもらって、少し落ち着いた後、私は慎重に切り出した。
「今日は大事な話があるの」
「……どうしたんだ?」
どうしても顔をうつむかせてしまう私に、彼は落ち着いた声音で問いかける。優しい。不意に、涙ぐみそうになる。
「大丈夫か? なんだか思いつめてるようだが……」
この優しさが嘘だなんて、やっぱり思えない。
今の関係を壊したくない。
でも、私は足を踏み出してしまった。
確かめなければもう、先には進めない。
痛くなる喉を必死に堪えて、震える声で、私は言った。
「……見たの」
「何を?」
「あなたの部屋に出入りする女性を」
「!」
彼の顔色が変わる。それも、私が想像していたよりも、もっとひどい表情に。
ひた隠しにしていた秘密を、ナイフで抉って強引に暴かれた――これはそんな表情だった。
やっぱり、本当だったのね。
「か、彼女は妹で……」
「前、姉妹はいないって言ってたわ」
「ご、ごめん、実は友達が」
「友達でも、女性に合鍵を持たせるの? 私ですら持ってないのに」
真っ青になった彼は、誤魔化す言葉もしどろもどろだ。嘘をつけないことは彼の美点だけど、今回ばかりは、騙していて欲しかった。
「―――――」
彼が黙り込む。ついに観念したのか、うつむく。
沈黙が鉛のように重い。
視界が本格的ににじんだ。
確かめたのは、嘘だって言ってもらうのが目的だったのに。
最悪の形で答えを得た今、私は次の行動を起こさなければならない。
彼が私を選ばないのなら、私がここにいる意味はない。
「私より、あの人の方が好きなら、それでいいの。私はもう貴方の前には現れない」
「え……?」
「さようなら。貴方がどうであれ、私は貴方の事を愛してた。感謝してる」
「待てッ!! 君は何か誤解してる!」
立ち上がり、踵を返した私に彼の手が伸ばされた。肩を掴もうとしたその手を私は勢い良く振り払う。
「何を誤解してるっていうの!? 貴方が浮気してるのはどう考えても事実じゃない!!」
「違うッ!」
振り払ったはずの手がもう一度伸びる。逃れようとして、かなわず、腕をつかまれ、引き寄せられた。
「浮気なんてしてないよ。本当だ。誓ってもいい」
「じゃあ、じゃあ……あの人はなんなの? 私よりずっと可愛くて、合鍵まで持ってるあの人は……!」
「……心配する必要はない。君には関係ない女だ」
「そんな曖昧な言い方されたって信じられるわけないわ! ちゃんと言ってよ!」
彼と触れ合うと、嫌というほど痛感する。
大柄で、背だって高い私は、小柄な彼に似合っていない!
やがて、私は彼の束縛を振りほどき、逃れる。彼がバランスを失って棚に倒れた。
棚が倒れる。
「あぶな……!」
怪我をさせてしまっただろうか。さっきまでの事を忘れて、私は慌てて彼に駆け寄って――
開いた棚の扉から溢れてきたものに、私は絶句した。
バラバラと振ってきたのは、口紅、ファンデーション、マスカラ、化粧水など……種々の化粧品。そして――長髪の女物のかつら。
皮肉にも、ぱさりと落ちて彼の頭にちょうどかぶさる。
その瞬間、私は全てを理解した。
――かつらを載せた彼の顔は、私が見たあの女の顔だった。
かつらを投げて、化粧品に塗れながら彼は笑う。
顔に手を当てて――自嘲の笑み。
「いつか言おうと思ってたんだ。でも、こんな趣味を言ったら、君が離れていくんじゃないかと怖くて……」
「ええ、そうね。たった今、あなたに興味が無くなった」
私の声音は自分でも意識しないままに凍りつく。
信じたくも無かった。
あの綺麗な女性が……彼本人、ですって?
浮気の方がまだマシだった。
彼が女装をしていた。それだけだったら、もしかしたら許せたかもしれない。
問題は――
女装をした彼が「私よりも綺麗だ」というところにあるのだ。
「ま、待ってくれ……! 僕は君を本気で愛してる! 許してくれ! こんな趣味、もうやめるから!」
「もう趣味をやめるとか、やめないとか、そういう問題じゃなくなってるのよ」
私は感情に任せて、彼の女装道具を一通り荒らした。
この化粧水は、ああ、あのメーカーの。
私が使っているのよりも質の悪い奴ね。こんな安物で、あの綺麗な肌を維持してるっていうの?
クローゼットを開ける。このコートは、あのブランドじゃない。随分と趣味が悪いわ。
かつらを手に取る。へえ、よく出来てるじゃない。私の髪よりも輝いている。
――悔しい。
私は化粧品を叩き割り、女物の服に鋏を入れ、かつらを毟った。
だって、認められるわけないでしょう?
許せるわけがない。
――――『私と同じ男』のくせに、私よりも綺麗な女を体現している男を。
大柄の私がどれだけ努力をしても届かない高みをさっきまで愛していた男に見せ付けられて、既に情愛など失せている。
ああ、おかしい。
あまりにおかしくて、取り乱した私は、いつもは抑えている本性を思いっきりさらけ出していた。
「ははっ、はははっ、はははははははっ!! まさか、まさかな、『俺』より綺麗な女が自分の彼氏だったなんて、冗談にしてはタチが悪い」
いつもなら意識をして抑えている声が、勝手に不潔な野太さを帯びて、醜い笑いを発している。
性転換手術を既にして辛い日々を歩んだ私より、中途半端な趣味しか持たないオカマ男の方が綺麗だなんて、どうして許せるというのか。
「すまない、すまない……こんな趣味、今日でやめるから」
「うるせえっつってんだろ?」
私は彼の顔を殴った。普段使わないようにしている暴力を思う存分に振るう。全く、困ったものだ。心は女だっていうのに、身体はこんなにも彼より強い。
彼の方がずっと女らしいだなんて、本当に、皮肉すぎる。
「……じゃあな」
私は最後に彼の急所を踏みつけて、部屋を後にした。
次こそはもっと男らしい人を見つけないと。
私の全てを力強く受け止めて、それでも愛してくれる、とても男らしい人を。