グランブルーの瞳(投稿者T氏)



その女はカウンターの一番端で、一人、影を落としていた。
店にはゆるいジャズが流れている。扉を静かに開けて入ってきた男は長いコートを脱ぎ、カウンターの椅子にかけた。
「久しぶりだな」
店の主人が声をかける。男は無言のまま手を挙げて応え、それから低い声で酒を注文した。しばらくして冷たいグラスが差し出され、男はゆっくりと味わう。
端の席には相変わらず女が一人、うつむいたままで座っている。表情は分からない。きめ細かな白い肌が、暗い店内で浮き立つようだった。
「こんな店にいるような娘じゃないな」
男は主人に向かって言った。
「こんな店とは言ってくれるぜ。しかしさすがだな、アデル」
店の主人がグラスを拭きながら答える。それからカウンターに身を乗り出し、小さな声で囁いた。
「まだ若いんだ。それに、ここらじゃ見ないようなべっぴんさ。誰かを待っているらしいがね。ワインクーラーを一杯頼んだっきり、もう二時間だよ」
「相手は?」
「素敵な恋人……というわけじゃなさそうだ」
目を走らせると、女はきょろきょろと店内を見回している。何かに脅えているようにも見えるが、アデルはその目に秘められた強い決意を感じた。
グラスの氷が、透き通った音とともに酒の中に崩れ落ちる。男は黙ったまま酒を口に含んだ。寡黙な男である。少しくたびれた背広。だがそれは洒落たもので、彼はいつもかっちりと着こなしていた。切れ長の目、通った鼻筋、きちんと整えられた髪と口ひげ。口元はきりっと引き締められている。
いつもなら多くの客が出入りする店だったが、今日に限って客は少ない。娘の待つ相手も、現れないようだった。しばらく一人で飲んでいたアデルは席を立ち、どこかへと姿を消した。だが、店が閉まる少し前、彼は再びやってきた。女は相変わらず、空のグラスを前に座っている。
「じっと座ったままさ。……もう閉店だよ」
店の主人がアデルに言った。
「誰も?」
「誰も」
無駄な電気をつけておくことはない。主人は店内の照明を順に落としていく。そして女に声をかけた。
「お嬢さん、もう終わりなんだけどね」
「あ……。ごめんなさい」
「待ち人来ず、かい?」
「ええ、まあ」
緊張していた顔には、安堵と不信感とが刻まれている。
「カレン=ギブソン」
アデルの静かな低い声に、女ははっとしたように振り返った。
「カレン=ギブソン、二十五歳。フロリダ出身。五日前からホテルロッターに滞在している。滞在中に男が二人、別々に訪ねて来た。一人はレインという薬剤の研究者、もう一人はオッドマンだ」
「オッドマンって、あのオッドマンか? アデル」
「そうだ」
「ちょ、ちょっと待って。あなた、何なの?」
女の問いに、アデルは軽く肩をすくめるだけで応えなかった。
「おいおいアデル、オッドマンはあん時からずっと南の方へ行ってたって話じゃないか。戻ってきてたのかい」
「そういう噂は先週くらいに聞いていた」
「本当に戻ってきてたのか……。面倒な事にならなきゃいいがな。奴め、また何かやらかすつもりなのかね?」
二人は女の存在を忘れたかのように話している。女は呆気に取られていた。
「ああ、すまんな。オッドマンってのは……いやまずこいつを紹介しとこうか」
主人は親指でアデルを示し、唇の端に笑みをにじませた。
「名前はアデル=ブロウ。正体不明の遊び人さ」
「……」
アデルの鋭い視線が飛ぶ。
「い、いや冗談だよ。元刑事でな。俺とはその頃からの付き合いだ。仕事は……まあ色々あって十年くらい前に辞めちまった。今は探偵とでも言えばいいのか? とにかく、危ない橋を渡るのが趣味みたいな奴だ」
「別に、楽しんでやっているわけじゃない」
「そうかい? ま、これで分かったろ。あのくらい調べるのに、たいした時間は要らないってことさ」
アデルは自慢げな主人に冷たい視線を送ったが、何も言わずにいる。
「で、さっきの続きだが、オッドマンというのは数年前までこの町にいて色々と厄介な事件を起こしていた奴なんだ。アデルがだいぶ追い詰めたが、ふいっと姿を隠しちまってな」
「逃げ足の速い野郎だった」
「だがそいつが戻ってきてるとなると……嫌な予感がするんだよな。お嬢さん、あんたあいつとどんな関わりがあるんだい? もちろん真っ当な話じゃないんだろうが。だがあんた、悪い女にゃ到底見えやしない。何か、揺すられてるとか……」
「あなた方に何の関係があるっていうの」
カレンは動揺しながらも唇を引き締め、きっぱりとした口調で言った。
「そりゃまあそうだが……」
主人はアデルを横目で見ている。アデルは片手でグラスを揺らしながら、黙ったままだ。
「余計なお世話かも知れんがね。あんたが余計なことに首を突っ込んでたりしなきゃいいと思って……」
「放っておいていただける?」
それだけ言うと、彼女は目を伏せて二人に背を向けた。アデルが声をかける。
「どこへ帰るつもりだ?」
「……」
「ホテルへ戻るのか?」
振り返ると、アデルのからかうような表情が目に入った。
「あんたは今朝、金がなくてホテルを追い出されてる」
女は黙って唇をかんだ。

明かりをつけると、雑然とした部屋が目に飛び込んできた。二枚の窓にかけられたブラインドには埃が積もり、もうずっと開け閉めしていないことが一目瞭然だ。吸殻が山になった灰皿や空き缶がそこらじゅうに置かれ、机の上だけでなく床にまで雑誌や書類、ファックス用紙などが積まれている。それらを無造作にかきわけ、アデルは奥の部屋へ続く扉を開けた。
「こっちが寝室だ。汚いとこだがとりあえず寝られる」
カレンは部屋の前で立ち止まり、アデルを振り返る。
「……こんな部屋で寝ろと言うの?」
「向こうの部屋よりはましだろ。それに、路上で凍えるよりはずーっとましだ」
「……で?」
「ん?」
「あなたはどうするの。ベッドは一つしかないわ。同じベッドで寝るの? 路上よりはましだから?」
「やけになるな。俺はそこで寝る」
指の先に目をやると、ベッドの脇に服や何かが山になっている。その脇からソファの肘掛が少し顔を覗かせていた。
「片付けなきゃ寝られないわね」
「下に落とせばいいさ」
「……この部屋、いつまで経っても片付かないわ」
「ほっとけ」

床についてしばらくの間、部屋は暗闇と沈黙とに満たされていた。窓の外から眠らない町のクラクションや喧騒が入り込んでくる。だがそれは小さく、かすかなBGMのようなものだ。アデルは現実と夢の狭間を漂いながら、いつもと同じその音を心地よく感じていた。
「……父は、研究熱心だったわ」
カレンの声がし、アデルは現実に引き戻された。
「いつも大学と家との往復で……休みの日も書斎に閉じこもって化学の研究をしてた。家族はほったらかされていたけれど、私は父を尊敬していたし、母がそばにいてくれたから平気だった。大学では父と同じ化学を専攻したわ。でも、父のようにはなれなかった」
「身の上話か、それとも何かの懺悔か?」
「……独り言よ」
アデルは黙りこみ、狭いソファで寝返りを打った。
「母が死んだとき、泣いている父を初めて見たの。驚いたわ。でも……嬉しかった。それから父は私との時間を多く持つようになり、私たちはいろんなことを話し合った。父の研究のことも、教えてもらったわ。そして、研究の成果が狙われているって聞いた。そんなある日、父はいなくなったわ。突然に。そしてレインという男が来た」
「ホテルにも来た男だな」
「レインは研究の成果を手に入れたがっていたわ。だけど、私は父の居場所も知らなかったし、マイクロフィルムも持っていなかった。また来ると言われて……私は翌日家を出た。そしてこの町へ来たの。けれど、すぐに見つかったわ。レインは何も知らないと言ってどうにか追い返した。そうしたらあの男……」
「オッドマン」
「そいつが来たの。……。あいつが……」
小さな嗚咽(おえつ)が聞こえ、続いて咳き込むのが聞こえた。
「母の形見をよこせと言われたわ。私は持っていないと言ったけれど、信じてはもらえなかった。家中を荒らされたけど私は何も言わなかった。そうしたら今日、あの店に持ってくるようにって……」
「……」
「何も言わないのね」
「独り言なんだろ?」
カレンは黙り、アデルも何も言わなかった。
「……寒いわ」
「空調はそれなりに効いてるはずだ」
「寒い」
「ソファは狭い」
「ベッドは広いわ」

二時間後、カレンはアデルの腕の中でこう言った。
「明日もあの店へ行く?」
「そんな質問は馬鹿げていると思わないか」
「……そうね。でも、明日も会いたいの」
「このまま数時間待てば明日になるさ」

オッドマンが現れたときのことは、書くまでもない。カレンは形見を渡せないと言い、オッドマンは彼女の腕をひねり上げた。そして彼女の母の形見――つまりはマイクロフィルムが貼られたネックレス――を引きちぎろうとした。そこへアデルが登場。悪者は退治され、彼女は泣いて礼を言う。ありきたりのエンディングだ。
店の主人は何事もなかったかのように割れたグラスを片付け、アデルはカレンにネックレスを付け直してやった。
「アデル」
「ん?」
「あなたの部屋」
「俺の部屋がどうした」
「私が片付けてもいいわ」
ネックレスを付けたアデルは彼女の前に回り、あごを軽く持ち上げた。カレンの瞳にはグランブルーの瞳が映っている。彼女はうっとりとそれを見上げた。
「アデル……」
「面白い格言がある」
「え?」
「『男はいつでも最初の男になりたがる。そして、女はいつでも最後の女になりたがる』というんだ」
「……それで、貴方は?」
アデルは黙ってキスをし、そして振り返ることもなく店を出ていった。