赤い風船(投稿者ロ氏)



 柳瀬真由には、両親がいないことに対する悲観はあまりない。
 これだけを言うと我ながら親不孝者のように聞こえるが、そうした環境が当たり前だったのだから仕方がないこととも思う。年端もいかぬ頃から母とは別居、父に至っては共に過ごした記憶すらない。これについてはお家事情であるし、誰かに話して同情を引こうなどとは微塵たりとも考えないので伏せておく。とにかく暫くは祖父のところに厄介になって、その祖父が倒れてからは施設暮らし――それが簡単な経歴だ。
 しかし、何事にも終わりは来る。
 十八歳である。
 十八歳になれば施設を出なくてはいけない。
 もちろん大学に行くという選択肢はない。高校までは何とかなったが、この先まではさすがに無理だ。国立に入れるような頭は残念ながら持ち合わせておらず、私立に行けるほどのお金はどこからだって捻り出せない。
 後から考えても働くのが唯一の道であったろう。
 ただ、
 できるなら、自分を必要としてくれる人のために働きたかった。親にも必要とされなかった自分を必要としてくれる人がいるのかはわからない。が、黙っていても見つからないのは確かである。探しに行くのも悪くなさそうだった。
 そのようなことを考えに考え、結局真由はフリーターに収まっている。バイトを掛け持って旅費と生活費を稼ぎ、必要なだけ溜まったら次の町に移動するのだ。住み込みで働かせてもらったこともあれば、安いカプセルホテルに滞在したこともある。酷いときには――その「酷いとき」はわりと多いのだが――野宿だったこともあって、無人駅が寝床としてなかなか使えることも覚えてしまった。
 この暮らしを始めてからもう二年、真由も二十歳になる。
 望んだ出会いは今のところない。
 負けるもんか、と真由は思う。

「――いらっしゃいませ! ご注文は?」
 ドアに取り付けられた鈴が鳴った。真由はすぐさまそちらに振り返ると、極上の営業スマイルを浮かべる。
 喫茶『風花』。
 この町で仕事を探そうと決めたとき、真っ先に選んだのがここだった。時間は夕方から夜にかけて。最も忙しい時間帯だが、それに見合って時給も悪くない。経験豊富な真由の目から見ても高給な部類だ。さらに住み込みOKとくれば、もう飛びつくしかあるまい。
 もちろん、こんな条件を出すのは店にとってかなりの負担であるはずだ。実際募集をかけているということは人手がほしいワケがあるのだろうし、そのワケもあらかた想像のつくものであったが、実際働いてみて想像は確信へと変わった。
「ミルクティー一つ、ショコラ一つですね。では少々お待ち下さい。……はい! 何か御用でしょうか? ――ああ、それでしたらあちらの突き当たりになります」
 お盆を片手にテーブルの合間を駆け回り、次から次へと舞い込む注文を処理してゆく。
 今までいくつもバイトをこなしてきて、フロアの仕事はほぼ完璧にマスターした。そんな真由をして忙しさを感じさせるほどの客足であった。

「お疲れ様、真由ちゃん」
 店じまいして後、一番にそう声をかけてきたのは『風花』の店長を務める美智さんだ。あれだけ来客がある店を真由が入るまでは一人で切り盛りしてきたというだけでも驚きなのに、そのうえ五歳になる一人娘の面倒まで見ているのだから凄い。美智さんは十個ほど年上である。十年というのはそれなりに重みある年月のように聞こえるが、さりとて自分が十年後ここまで逞しくなれるかといえば、正直少し自信がない。
「美智さんも。毎日大変ですね」
「あはは。もともといろんな人が来てくれてたけど、最近また増えたのよね」
「最近、なんですか?」
「半年くらい前からね。真由ちゃん、人気あるのよ」
「はあ……」
 何と返したものか。労力削減のために雇ったのだろうに、これでは本末転倒である。
「ま、おかげで繁盛してるからいいんだけどね」
「……ならいいんですけど」
 真由はどこか納得のいかない思いを抱きながらも頷いた。
 美智さんが切り出そうとしている話題は、なんとなく察しがついた。
「で、つまり真由ちゃんが来てからもう半年になるわけじゃない。そろそろ契約切れるんだけど、真由ちゃんはどうしたい?」
 それは、真由にとっても悩みどころだった。
 旅費は溜まっている。
 バイトの求人情報も把握している。
 あとは心持ち一つなのだ。
「……ちょっと考えさせて下さい」
 迷う。
 自分を必要としてくれる人のために働きたいと思っていた。
 ここは――この人たちは、どうなんだろう。

 翌日はバイトのない日だった。
 と言うより、『風花』自体の定休日だった。
 美智さんの「ちょっと美羽の相手お願いできる?」と、五歳になる美羽ちゃんの「ヒロインショー連れてって!」に逆らえず、真由は中心街のデパートを訪れていた。
 もちろん、真由自身はこれといって興味があるわけでもない。演技を眺めるでもなくまどろみに身を任せていた。上演中ずっとだ。我ながら嫌な客だと思うが、周囲をぐるりと見回してみれば、子供の付き添いでやって来たお母様方は皆そのような手合いであった。メインの観客たる娘たちの歓声を耳にし、びっくりして目を覚ました――そう語る者の数は両手両足全ての指の数でも到底足りまい。
 どうやら催しは終わったようで、美羽ちゃんが手持ち無沙汰にこちらを見つめていた。
「ああ、ゴメンね」
 手を繋ぎ、風船を配る着ぐるみたちの間をすり抜けていく。向かう先は階段だ。
「面白かった?」
「うん!」
 元気一杯の返事。自然と頬が緩んだ。
「よかった。これで思い出作れたね」
「思い出?」
「うん。ほら、私が来てからもう半年経つから」
 階段を下り、途中でエレベーターに乗り込んで、外の休憩スペースに出た。
 自動販売機でアイスを買う。一人一つ。美羽ちゃんが好きなストロベリーをあげると、案の定にっこりと微笑んだ。思わず手が動いて小さな頭を撫でる。五歳の少女はくすぐったそうにしてまた微笑む。
「半年たつと、どうして思い出作るの?」
 適当なベンチに腰かけたところで美羽ちゃんの質問が飛んできた。先の説明で納得させることはできなかったらしい。察せという方が無理な注文だったろうか。
「そろそろお店やめて、別の町に行く頃でしょ」
「え? おひっこし?」
「いや、私がね」
「ミウとお母さんは?」
「今までどおり」
 少女が何事かを考えるように押し黙る。今の話を頭の中で整理しようとしてるんだろう――そう判断し、真由はアイスを口に運びつつ天を仰いだ。
 空の青。
 雲の白。
 一点の赤。
「……赤?」
 呟いてから気付いた。
 風船だ。
 デパートの屋上から赤い風船が浮かび上がっているのだ。風に吹かれてふよふよと漂っているそれを、ついまじまじと目で追ってしまう。そういえば配っていたっけ。もらった子供が手放してしまったに違いない。ちゃんと持ってなきゃ駄目なのに。今まさに泣いてる最中なんじゃないだろうか、とまで思考が及んだ。ちょっと可哀想だ。
 と、そこで、黙りこくってアイスをつついていた隣の少女がぽつりと言う。
「マユ、いなくなっちゃうの?」
 危うく聞き逃すところだった。
 真由は少し考えて、
「どうだろ。私にもわかんない。私は――そう、」
 さっきから空を泳ぐ風船を指差し、
「私は、あの赤い風船なの」
「マユが? ふーせん?」
「そう。風船は黙ってると飛んでっちゃう。飛んでどこに行くのかは風任せ、自分にだってわからない。途中で木に引っかかって萎んでいくかもしれないし、最後までどこにも止まらないで萎むかもしれない。誰かが掴んでくれるかもしれないし、くれないかもしれない。それも自分じゃわからない」
 そうなのだ。自分とあの赤い風船はよく似ている。
 自分を必要としてくれる人のところで、と望んではいる。しかし、そんな人が果たして実在するのか。もちろん人手として欲してくれる人はいて、今までも彼らの要求に応えることで生活してきた。その意味では充分必要とされてきた。
 ただ、ああいう場所で風船が配られるのは、それが色とりどりで華やかだからだ。見る者の心を楽しませるからだ。同じくらいに役割を果たせる代わりさえあれば、別に風船でなければならないなんてことはない。
 しかも――
 風船だって、何も浮かびたくて浮かんでいるわけではないのだ。風に運ばれて、浮かばざるを得ないから浮かんでいるに過ぎない。
 本当にそっくりだ。
「…………」
 美羽ちゃんはまた沈黙し、やがて首をかしげ、
「でも、マユとふーせんは、ちがうよ?」
「え? そりゃまあ例えだから、私がホントに風船なわけでは」
「ちがうの」
 真由の抗弁を遮って、少女は自分の考えを披露する。
「んとね。ふーせんはいっぱいあるから、他のと取りかえっこできる。でもマユの代わりはいない。初めは他のひとでもよかったけど、今はもうだめ。なんでかって、ミウたちと仲良くなったのはマユだから」
「――、」
 思う。
 これは、まさしく自分が望んでいた「必要としてくれる人」の台詞ではないのか。
 視線を少女の顔へと落とした。
 少女は自慢げに笑っている。
 よく言えたでしょ。
 そう、表情が雄弁に語っている。
「あ。だけどね、もしマユがね、ふーせんの方がいいって思うなら」
 温かさを感じた。
 少女が小さな手を伸ばし、こちらの手を握ってくる。
 親でさえも与えてくれなかった温もりが、たしかに左手を包んでいる。
 真由は息をついた。
 次にかけられるであろう言葉は大体わかる。必要としてくれる人はここにいた。自分はここにいていいのだ。いるべきなのだ。

「ミウが、ちゃんとつかんでるから」